第6話 衝撃のコーヒーと温もりのカフェオレ


 まだ薄暗い時間帯に、俺はむくりと体を起こす。外へ耳を澄ませてみると、小鳥たちの鳴き声が微かに聞こえて来た。夏だとしてもまだ冷たい空気の中、俺はぐっと背を伸ばす。



「……とうとうだ」



 まだ住み始めてから一週間程度しか経っていない自室で、俺は朝早くから目を覚ました。まだ営業開始まで時間はあるのだが、緊張からかいつもより早く目が覚めてしまった。今の時間は……朝の五時だ。お店の準備を始めるまでまだ九時間もある。



「なんか、すごくドキドキしてきた」



 よくよく考えてみれば、この一週間で俺は店から外に出ていない。食事なら店のまかないとして食べることができていたし、服も部屋の中に最低限整っていた。恐らく文乃さんが気を遣って服を取り寄せてくれたのだろう。俺の私服を見た文乃さんはニッコリとしていた。


 俺はまだ着慣れなれていない服に身を通して顔を洗い、部屋を出て一階に降りる。特にやることもないというのもあるが、気を紛らわせる意味合いでも一度店の方に足を運びたかった。だが、そこには先客がいた。



「おや、早いね舞宵君。おはよう」


「おはようございます文乃さん」



 まだ朝五時だというのに文乃さんは店でなにやら準備をしていた。恐らく最終調整や頭の中で今日のシミュレーションを描いているのだろう。文乃さんは白いワンピースを着て、メモを手にしながら店内を徘徊していた。いつもは大人びた格好をしている文乃さんだが、今日は女上司というより



「何してるんですか?」


「客の視点になって、改めてこの店を見ているんだ。もちろん、店員のイメージは舞宵君と瑞希ちゃんだ」



 そう言って文乃さんは笑顔を見せる。いつもは女上司としてカッコいい文乃さんだが、この時は魅力的なお姉さんに見えた。白いワンピースというのが木造のカフェの中で文乃さんをより一層引き立てる。



「舞宵君はどうしたんだい?」


「その、なんとなく起きてきちゃって」


「ははーん、さては緊張しているな? まあ、気持ちはわかるよ。私だって珍しくドキドキしてるんだから」


「文乃さんもですか?」


「当然だろう? 私だってこういうことをするのは初めてなんだ。内心では心がおぼつかないよ」



 どうやら文乃さんほどの人でも緊張はするらしい。いつもは大人らしく俺や瑞希さんのことを導いてくれているのだが、この時ばかりは文乃さんの顔が曇りがかって見えた。このカフェの責任者ということもあり、きっと俺なんかでは想像もできないほどのプレッシャーと負担が掛かっているのだろう。



「こういう時こそお酒でも飲んで気楽になれればいいんだけど、私はお酒飲めないからなー」


「あれ、苦手なんですか? おしゃれなバーでワインやカクテルとか大人っぽいお酒を嗜んでるイメージがありますけど?」


「苦手というより、飲んだことがないだけさ。あーあ、法律というのは時に人を束縛するよね」


「なるほ……ん?」



 一瞬だけ納得しかけたが、文乃さんの言葉に違和感を感じた。法律に束縛されている? 日本でお酒に関する法律があるのは記憶喪失な俺でも知っているが、記憶が間違っていなければお酒が飲めるのは20歳から。ということは……



「失礼ですが、文乃さんってとっくに20歳なんじゃ……」


「今年でそうなるね。だが今は19歳だ」


「じゅうきゅ!?」



 文乃さんがあまりにも大人っぽいので、てっきり二十代半ばくらいだと思っていた。あれ、ということは……



「文乃さんって、もしかして大学生?」


「いや、海外の高校を卒業して今年の春にそのまま帰ってきた。知ってるかい? 海外の高校は四年制なんだ」


「つまり、今年の春に高校を卒業したばかり?」


「ああ、そうなるね」



 朝五時ということで少しだけ眠気があったのだが、文乃さんの衝撃のカミングアウトですっかり目が覚めてしまった。頼りがいがある女上司だと思っていた人物が、まだ十代で自分と歳も近い帰国子女だったと。



「そういえば舞宵君と瑞希ちゃんには言ってなかったな。もしかして私、老けて見られてたかな?」


「い、いえ! でも、凄く大人っぽい人だなとは思ってました」


「そう? まあ向こうではオシャレやファッションのレベルが日本よりも進んでいたからね。この服で向こうに行ったら笑われちゃうよ」


「そうですか? とても似合っていると思いますけど?」


「お、そう言ってくれるのは嬉しいね。舞宵君から若さを吸収しておこう」



 文乃さんはそういって俺の言葉を受け流していたが、俺の言葉は本心だ。文乃さんは今の自分の格好を手抜きみたいに言っているが、この文乃さんも魅力的だ。だからこそ、本人に否定されると少しだけ空しくなる。



「ところで舞宵君、コーヒーを淹れてくれないかな?」


「え、俺がですか?」


「今日は君に厨房を担当してもらうから、たぶん君はコーヒー関係に触れられない。だから、技術を維持する意味合いも兼ねて今のうちにね。それに、舞宵君のコーヒーも十分おいしいよ」



 文乃さんはそう言って俺にカウンターに入るように促してくる。目を向けるとテーブルの上には既にコーヒーミルなど一式の道具が揃っていた。恐らくだが文乃さんが自分で作って一人で飲む予定だったのだろう。



(お邪魔しちゃった分、とびきり美味しいコーヒーを淹れなきゃな)



 責任は重大だ。だが緊張して体を強張らせてもおいしいコーヒーが淹れられないのはこの一週間でよくわかったので一度心を落ち着けて無にする。そしてそのままコーヒー豆を焙煎し、フィルターに粉末を移してゆっくりとお湯を回し入れていく。ちなみに最近知ったのだが、この淹れ方をペーパードリップと呼ぶらしい。



 そんな俺の様子をニコニコと見つめている文乃さん。まるで我が子の成長を見守っている母親のようだ。『ファミリア』という名前のカフェをするにあたりその感情は案外間違っていないのかもしれない。だとすれば瑞希さんはやはり俺の姉的な位置にあるのだろうか?



(おっと、余計なことを考えるな)



 今はコーヒーを作るのに神経を集中させる。別のことを考えながらコーヒーを作ったら失敗しやすいというのは身に染みてわかっているので頭の中を消しゴムでなぞるように真っ白にしていく。そして、今考えるべきなのはこのコーヒーを飲む文乃さんの事。



『いいかい? どんなサービスも必ず相手のことを考えて行動するんだ。そうしなければ、商売というのは成り立たないからね』



 文乃さんだって俺たちにマナーを仕込むときにそう言っていた。それはコーヒーを淹れるときだって同じこと。俺が淹れたコーヒーを飲んで笑顔になってくれる人のことを考えるんだ。



「……いい顔だ」



 そんな俺のことを見て文乃さんがそう呟いた。記憶喪失で戸惑っていたころの俺はどんな顔をしていただろうか。だが、今ほど自信に満ちた顔ではなかったことは確かだ。そうして俺はカップにコーヒーを注いでソーサーに乗せる。そして、スプーンに角砂糖を乗せて文乃さんの前に出した。



「どうぞ」


「うん、いただきます」



 そうして文乃さんは俺の淹れたコーヒーに口をつける。ちなみに文乃さんはブラックが好きなようで砂糖を混ぜずにそのまま飲み始めた。そして三秒ほど口をつけ、そのままソーサーにカップを置いて俺の方を見た。



「……いいね」


「え?」


「とてもおいしいよ。一週間の付け焼刃なんかじゃない。この一週間で学んだことは、君の力になっている。このコーヒーがその証拠だ」



 そうして文乃さんは再びコーヒーに口をつけ、一分のかけずに飲み干した。今までも文乃さんに試飲してもらったことは何度もあったのだが、今日この時だけはいつもとは違う感情になった。なぜか、こちらの心まで温かくなってきたのだ。



「さて、食器は私が片付けるよ。舞宵君はその間に瑞希ちゃんの様子でも見てきてくれ。きっとあの子も起きてると思うから」


「はい、わかりました」


「コーヒー、ありがとね」



 そう言って文乃さんは俺と入れ替わるようにカウンターへと立って洗い物を始めた。彼女の言葉で、いつの間にか俺の中にあった緊張はすっかりほぐれていた。



 そうして俺は文乃さんに言われた通り再び三階に戻って隣の部屋の扉をノックした。しばらく空白の時間を過ごしたが、すぐに扉が開いて瑞希さんが顔を出した。まだ寝起きだったらしく、薄めのルームウェアを着た瑞希さんがそこにいた。



「まだ朝六時だぞ。こんな時間に何してんだよ」


「文乃さんが、瑞希さんの様子を見て来いって」


「……ったく、余計なお世話だっつうの」



 そう言って瑞希さんは口を手で覆いながら欠伸をする。どうやら彼女は俺と違って緊張していないらしい。むしろ来るべき時に備えてリラックスしているようにも見える。



「舞宵、朝ごはん食べた?」


「あ、そういえばまだでした」


「……というか、お前の部屋になんか食材あんの?」


「……あ」



 今までは朝早くからまかないと称して料理の練習をすることで凌いでいたが、その生活も今日で終わった。つまり、これからの食事は自分で用意しなければならないのだ。だが、まだ給料は受け取っていない。給料日までまだ数日ある。



「……食べてく?」


「え?」


「だから、食べてくかって?」



 瑞希さんは俺の顔を覗き込みながらそんなことを言ってきた。多分、俺の部屋に食料が何もないことを見抜いていたのだろう。というより、一度も外出していないので当然か。



「その、いいんですか?」


「いいもなにも、仕事中に倒れられたら困るのはアタシたち。そこんとこわかってる?」


「は、はい。じゃあ、お言葉に甘えていいですか?」


「だから、そう言ってんだろ」



 そうして俺は瑞希さんの部屋の中に入った。彼女の部屋の中に入るのは初めてだったが、特に何の変哲もない俺と同じ構造をした部屋だった。てっきり女の子らしい部屋が広がっているかとも思ったのだが、彼女も給料を受け取っていないのでそのような雑貨や小物を揃えなれないのだろう。



「ジロジロ見んな……といっても、見られて困るものが何もないか」


「そういえば、食材とかはどうしてるんですか?」


「アタシはアンタと違って貯金があるから。あとはネットでポチるだけ」


「ああ、そういえばたまに配達員さんが来てましたね。てっきり店の備品とかを配達しているのかと思ってました」



 そうして瑞希さんは冷蔵庫から食材を取り出してテキパキと調理を始めた。この一週間で瑞希さんが料理できることは充分にわかっていたが、彼女の後姿を見て改めてその無駄のなさに驚嘆する。


 そうして十分も待つことなく、温かい料理が食卓へ運ばれてきた。トーストと目玉焼きにフレンチサラダ。スープ代わりにカフェオレまで淹れてくれている。



「見入ってないで手ぇ合わせろ。さっさと食うぞ。アタシも腹が減ってんだ」


「あ、はいすみません……いただきます」


「いただきます」



 そうして俺は瑞希さんが作ってくれた朝食を食べ進めた。彼女の料理はどれも繊細で優しい味がした。見るからに目分量で調理をしているはずなのに、しっかりと絶妙な味付けになっている。



「ま、病院食よか美味いだろ」


「あ、やっぱり俺が入院してたこと知ってたんですね」


「まあな。ま、アタシには関係ないし、別にって感じだけど」



 彼女はそう言っているが、関係ないと思っている人がここまで温かい食事を作ってくれることはないだろう。今にして思えば、瑞希さんはこの一週間でずっと俺のことを気にかけてくれていた。瑞希さんがぶっきらぼうな性格をしているせいで紛らわしいが、やはり瑞希さんは優しい。



(……温かいな)



 家族を失ってどうしようかと思っていたが、本当にいい人たちと巡り合うことができた。体の調子もすこぶるいいし、事故の後遺症も記憶喪失だけに留まってくれて怪我もない。もしかしたら、神様が俺のことをこの場所に導いてくれたのかもしれない。



「んだよ辛気臭い顔して。こういう時は気を遣って面白い話でもしろよ」


「じゃあ、実は文乃さんが19歳だったということとかはどうですか?」


「ブフッ!?」



 俺が感傷に浸っている中、瑞希さんが面白い話をしろと言い始めたので先ほど発覚した衝撃の事実を伝えたら瑞希さんがカフェオレを吹き出した。やっぱり衝撃だよな。誰がどう見ても確実に二十代くらいに見えるし。



「……嘘つくなよ」


「マジらしいですよ」


「……マジか」



 瑞希さんは戦慄しながら溢したカフェオレをふきんで拭き始める。やはり同じ女性としても信じられないのだろう。容姿はともかく、どんな経験をしたらあんなに大人っぽい雰囲気を纏えるのだろう。記憶を失った俺にとって、この世は不思議でいっぱいだ。



「あとでテンチョを問い詰めに行く。舞宵、付き合え」


「ふふっ、はい!」



 そうして俺たちは今日店がオープンするということを少しの間だけ忘れて、開店準備の時間になるまで温かい時間を過ごすのだった。

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