第5話 才能、そして命名


 文乃さんの特訓が始まって六日が経過した。初日は素材や機材の名称を覚えるところから始まったのだが、俺と瑞希さんは難なくそれをクリア。この時点で文乃さんは俺たちのことを大きく評価していた。



「驚いた。瑞希ちゃんは頭が良いし、舞宵君も引けを取ってない。まるで乾いたスポンジに水を吸収させているかのようだ」



 記憶を失ってからというもの、俺は知識というものに飢えていた。何かを覚えてできるようになるのは心地が良いし、それが空っぽだった自分を新たに構成しているような気がする。このカフェでの知識が、新しい七識舞宵を作っていくのだ。



 二日目にはもうコーヒーの淹れ方について教わっていた。最初は見様見真似でやってみるも当然ながら文乃さんのように上手くいかずせっかくの豆を無駄にしてしまう。しかし、ここで意外な才能を発揮したのが瑞希さんだ。彼女もコーヒー豆から扱うのは初めてのはずなのに、限りなく文乃さんが淹れるコーヒーに近いものを作り出した。


 文乃さんは初めてコーヒーを淹れた瑞希さんのことを絶賛して褒めたたえ、俺もそれに負けじと瑞希さんのことを称賛する。だがさすがに俺たちの度が過ぎていたのか、途中から瑞希さんは俺たちに顔を背けて



「うっさいわ。喋ってないでさっさと飲み干せ茶化しどもっ!」



 と言いながら顔を赤らめていた。というか顔だけでなく耳まで赤くなっていたのでよほど照れていたのだろう。それとも褒め慣れていないだけだろうか。


 対する俺はこの時点で瑞希さんの口の悪さに慣れていた。彼女は口が悪いだけでこちらのことをたびたび気にかけてくれる。いや、気を遣ってくれているというべきか。要するに、ちょっと不器用な人なのだ。文乃さんは彼女の本質にある優しさを見抜いて彼女を雇うことに決めたのではないだろうか。



 そして三、四日目は厨房での猛特訓が始まった。そして、ここで俺の才能が開花……ということはなく、普通にうまいと褒められた。



「ちょっと失敗してるけど、初めてにしては上出来だ。いや、むしろ見様見真似で良くここまで再現できたものさ。舞宵君、君はこのまま練習を続けてくれ」



 文乃さんはそう言いながら俺に様々な料理を作らせ、それぞれのコツを伝授した。その間に文乃さんは瑞希さんに接客の最低限のマナーやレジの操作の仕方を教える。そしてその間に俺がまかないとして料理を作るのだ。そして夕方になったら、逆に俺は接客の仕方などを教わる。そしてそれと入れ替わるように瑞希さんが厨房に入った。



 そうして五、六日目になる頃には俺たちはある程度の仕事ができるようになっていた。さすがに一流店のようにはいかないだろうが、この時点でちょっとした学園祭のレベルは越えていると文乃さんに断言された。



「君たちの物覚えが良いのは本当にうれしい誤算だ。瑞希ちゃんはスムーズな接客ができるだろうし、舞宵君の成長は目を見張る。二人とも、ここまでついてきてくれてありがとう」



 文乃さんはそう言って俺たちの頭を撫でる。この人たちとほぼずっと過ごしているせいか、文乃さんが最初に言っていたように本当に家族のような関係性になってしまった。いつもの瑞希さんはすぐに文乃さんの手を払いのけただろうが、この時ばかりは目を逸らしながら勝手にしろとばかりに受け入れていた。いや、それとも俺という後輩がいる手前乱暴に払いのけることができないだけだろうか。



「舞宵、あとで食器しまうから手伝って」


「はい、わかりました!」



 瑞希さんはもともと才能豊かな方なのだろうが、俺の成長速度に恐怖感を覚えたのか必死に仕事を覚えていた。まるで負けず嫌いの姉みたいだったが、今ではその表現がすっかり落ち着く。彼女は特訓の合間に何度も俺のことを見ていてくれたのだ。いや、見守っていてくれたと言った方が正確かもしれない。



「ふふ、この一週間で仲良くなったものだね二人とも」



 文乃さんはそう言って店の外へと出ていった。瑞希さんはその様子を見て「ふん」と鼻を鳴らしながら俺が洗った食器を真っ白なクロスで拭いてしまっていく。その様子を見て俺はつい笑ってしまった。



「おい、なに笑ってんだよ」


「いや、嬉しそうにしてたので」


「ったく、調子乗んなよ。今度のまかないでパスタにタバスコを大量に入れっからな」


「そ、それは勘弁してください」



 だが、文乃さんの言葉は間違っていない。最初は戸惑いながら接していた俺たちだが、今では軽口を言い合えるような関係性になった。瑞希さんが姉御肌だったことや俺が追い詰められた極限状態だったことなど、様々な要因が構築した関係性だった。



「明日オープンだけど、舞宵は大丈夫?」


「はい、問題ありません。瑞希さんや文乃さんがいてくれるので」


「ふっ、なんだよそれ」



 とうとう明日がオープン日になってしまったが、俺に不安はない。この一週間でやれることはやってきたし、仮にミスをしてもそれをフォローしてくれる家族がいる。もちろん俺も二人がミスしたらすぐにフォローに入るつもりだが、この二人がいてくれればどうにかなるような気がするのだ。あとは、俺がどれだけミスを留められるかにかかっている。



 そうして俺たちが練習に使った機材を片付けていると、文乃さんが何やら荷物を運んで店の中に入ってきた。段ボールに包まれていてよく見えないが、かなり大きなものに見える。



「ふぅ、ようやく届いたっと」


「テンチョ、なんすかそれ?」



 瑞希さんも怪訝な顔をしながらその物体を見つめていた。対する文乃さんは嬉しそうに段ボールを解体していく。すると、二枚に重なる板のようなものがちらりと見えた。



「この店の看板だよ。一か月前から注文してたんだけどようやく届いたんだ。いやぁ、明日オープンだったし、ちょっとギリギリだったね」



 そうして文乃さんは丁寧に段ボールを畳んでいく。梱包材などもしっかり剝がし、俺たちに看板を見せてくれる。そしてその看板には、見たことがない文字が刻まれていた。



「文乃さん、何ですかこの『ファミリア』って文字?」



 文乃さんが持ち上げる看板にはファミリアという文字が刻まれていた。ファミリーというのは文字通り家族という意味だろうが、看板にそれを書く意味が分からない。だが文乃さんは笑いながら答えてくれる。



「ああ、このカフェの名前だよ。二人には言ってなかったけど、実はこの店を借りる前から店の名前を決めてたんだ。報告が遅れてすまない」



 文乃さんは笑いながら俺たちに伝え忘れていたことを謝罪する。カフェの名前というのは本当に大事なものだ。だからこそ俺が介入するのは少しおこがましいし、瑞希さんも特に気にしていない様子。いや、その意味合いにはちょっと興味がありそうだ。



「文乃さん、ファミリアってどういう意味なんですか?」


「ああ、英語やイタリア、スペイン語で文字通り家族って意味だ。それだけじゃなくて、心やすい関係とかありふれた風景という意味合いもあるね。こういうのが私の目指すカフェの理想像なんだ」


「へぇ、素敵ですね」



 確かにこのカフェを経営するにあたりピッタリな名前だ。ポカポカする名前だし大事に出来そうな気がする。瑞希さんはノーコメントだったのでわからないが異論はないのだろう。勝手にやってくれと言ったスタンスでカップを片付けていた。



「看板が届いたし流通経路も確保。さらにはホームページも開設し備品も整備完了。そして何より、従業員の質も水準を超えた。うん、一か月で私もよくやったものだ」



 文乃さんは外に看板を設置しながら椅子に座ってそうぼやいた。俺にとっては一週間の猛特訓だったが、文乃さんにとっては一か月以上前からに及ぶ壮大な計画だったらしい。内容的にもかなりギリギリだった部分が多そうだが、オープンができる状態になっただけめでたいものだ。


 しかし、今から疲れていては意味がない。それを文乃さんが一番わかっているのかすぐに笑顔に切り替えて俺たちのもとへやってくる。



「二人とも、とうとう明日がオープンだ。勤務時間は14時から店の準備を始めて営業は15時から21時までの計7時間。もちろん店の準備中も給料は発生する。あと定休日は火曜日と土曜日。明日は日曜日で休日だから二人とも覚悟しておくように」


「あの、休日である土曜日を休みにしちゃっていいんですか?」


「ああ、一般的には稼ぎ時だし悪手だ。けど、この店の大半は学生でしかも高校生だ。それならば休日を提供しないと可哀そうってものだろ。せっかくの高校生活を、カフェの労働だけで終わらせるのは惜しい」



 どうやら文乃さんのやさしさがふんだんに盛り込まれた経営方針らしい。営業時間だって高校が終われば放課後に通いやすい時間帯にしてくれているし、最大限文乃さんが寄り添ってくれたのだろう。まあ、瑞希さんはともかく今の俺にはあまり関係ないのだが。



「随分と好待遇なんすね。もっと馬車馬のように働かされると思ってましたよ」


「そりゃ、本当はもっと営業時間を伸ばして働くべきだ。けど、従業員の数と現状を鑑みて、これがベストだと判断した。それとも、深夜まで働いてみたいかい?」


「いや、それ法律違反でしょ」



 瑞希さんは好待遇に少しだけ疑うようなそぶりを見せたが、確かに三人ではこれが限界だろう。というか、三人でカフェの営業が成り立つのだろうか。



「文乃さん、他に従業員は雇わないんですか?」


「何人かが応募してきたけど、全部断らせてもらった。瑞希ちゃんはギリギリクリアしてるけど、応募してきた人たちは飲食店に向かなそうな容姿と言動のガサツさが目立ったからね。それに何より、君たち二人と馬が合わなそうだったから」


「そ、そうなんですか」


「……ギリギリかよ」



 どうやら俺たち二人のことを考えたうえで断っていたらしい。あと瑞希さんはギリギリと言われてどこか居心地が悪そうにしている。俺たちは瑞希さんが悪い人ではないとここ数日の付き合いで分かりきっているが、お客さんに対してはまた違う側面となるのだろう。



「さあ、そんな限界に近そうな現状だけど、何がどうあれ明日がオープンということに変わりはない。改めて、覚悟はいいかな?」



「はい!」

「……はいはい」



 俺はやる気をむき出しに、瑞希さんは少し遅れ気味に返事をした。明日がオープンという事実には変わりない。だからこそ、自分にできる精一杯を提供するのだ。そして、俺たちの姿を見た文乃さんが張り切って



「それじゃとうとう、カフェ『ファミリア』オープンだ!」



 そう宣言し、明日の開店に備えるのだった。

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