第4話 開店準備に向けて


「いやーすまないね。いきなりだけどこの店を来週オープンすることにした。流通経路に目途がついて保険や商工会議所とかのやり取りもようやく終わるからさ。まあ、ようはあれだ、善は急げというやつだ」


「マジっすか」



 夕方。俺が部屋を見て回っているとあっという間に時間が過ぎて文乃さんが帰ってきた。そうしていきなり俺と瑞希さんを建物二階にある事務所に呼び出したのだ。弾丸のような報告に瑞希さんは眉間に尋常じゃないほどの皺が寄っていたし、俺もいきなりすぎて戸惑っている。



「マジもマジの大マジだ。売り上げを獲得しないとこの建物の家賃が払えないし、給料も払えない。現時点ではそこまで焦る必要はないけど、出来るだけ早く行動した方がいいだろう?」


「その、俺コーヒーの淹れ方とかまだ分かんないんですけど」


「もちろん今週中に覚えてもらうよ。あと、簡単な軽食も提供する予定だからそちらも合わせて覚えてもらう。ほら、舞宵君だってさっきできかけのマニュアルを読んでたじゃないか」


「ま、まあそうですけど」



 手順などは最低限理解することができたが、コーヒーを淹れるなんて経験が今までの俺にあったかわからない。いや、仮にあったとしても覚えてないので意味がないが。



「テンチョ、軽食って何出すの?」


「今のところ考えているのはサンドウィッチやサラダにスパゲッティ。デザートはパンケーキにパフェ。クッキーやケーキなどは外部に委託したいと思っている」


「多くない? 冷凍にすればいいじゃん」


「それも考えたけど、出来るだけ作りたてを提供したいんだ。ここに来た人には私たちの温かみを感じてもらって、満足して帰って欲しいからね」


「……そっすか」



 瑞希さんは呆れたようにそう言って背もたれに埋もれ込んだ。俺としてもこれから苦労しそうなので少しだけ現実から目を逸らしたくなったが、それはすなわち路頭に迷うことを意味しているので俺としても全力で仕事を覚えるしかない。



「基本的に二人にはすべての仕事をできるようになってもらうが、ポジション制のようなものを取り入れようかと思っている。今考えているのは、瑞希ちゃんが接客とオーダー、舞宵君が厨房、私がコーヒーや菓子類の用意、レジを担当しようかと思ってる」


「ちょっと待ってテンチョ、こいつが接客じゃないの? あと、厨房が一人とか負担でかくないすか?」



 文乃さんの提案に瑞希さんはすぐさま意見する。確かに瑞希さんは接客というガラじゃない。それに厨房が俺一人と聞いて少しだけ不安になっていたところだ。瑞希さん、もしかしたら何気に俺の不安も見越した質問をしたのかもしれない。それに対して文乃さんは何故かムッとしていた。



「こいつじゃない、舞宵君だ。一緒に働く以上、きちんと名前で呼ぶことを心掛けるように」


「私が誰のことをどう呼ぼうと私の勝手なんで。気が向いたら呼んでやりますよ」


「まったく君は。すまないね舞宵君、彼女は男性経験がないから男の子との接し方がわからないだけなんだ」


「やかましいっすよ」



 瑞希さんはそう言って会話を終わらせる。少しだけ寂しく思ってしまったが、男性経験のくだりを指摘された瑞希さんが少しだけ頬を赤くしていたのであながち文乃さんの補足も間違いではないのだろう。



「もちろん厳しいようだったら私が積極的に動く。これでも店長、いやマスターだからね。あと、接客の方もさ。従業員もこれから増やしていく予定だし、とりあえずこのポジションは仮だ」


「文乃さんが忙しかったときはどうすればいいんですか?」


「いや、それはない。私はスピーディーに仕事をこなせるだろうからね。ようするに、心配いらないってことさ」


「へぇ、頼もしいこと言ってくれるじゃんテンチョ」



 文乃さんの発言にニヤつきながら突っ込む瑞希さん。結局のところ俺たちが今週中にどれくらいの技術を身につけられるのかにかかっているのだ。人数は三人だし、それぞれに相当な質が求められるだろう。


 しかし、一つ問題がある。



「あの、一ついいですか?」


「む、何だね舞宵君」



 そう、厨房を任される俺にとっては緊急事態で、場合によっては死活問題になる事実がある。



「俺、料理できないんですけど」


「「……は?」」



 俺の告白に、二人はポカンとしてこちらを見つめて来る。文乃さんは忘れていたとばかりに頭を押さえ、瑞希さんは肩を震わせ必死に笑いをこらえていた。



「そういえば舞宵君は舞宵君で問題を抱えていたんだったね。すまない、これに関しては完全に私の計算ミスだ。その、今のところは大丈夫かい?」


「えっと、たぶん大丈夫です」


「そうか、ならいいが」



 『今のところ』というのはここに来てからのすべてのことを指しているのだろう。記憶喪失の俺でも物の使い方など意外と覚えていることは多いが詳細的なこと、すなわち料理などは全く覚えていない。



「で、でも、覚えればたぶんできると思います。えっと、自信はないですけど」


「あ、やってくれるのかい?」


「え、ダメなんですか?」



 文乃さんは一瞬だけポカンとして俺のことを見つめていた。どうやら俺が厨房という役割を断ると思っていたらしい。しかし、俺としても料理はできるようになっておきたいし、今後の人生にも必ず役に立ちそうな気がする。



「そうか……ありがとう」



 文乃さんは微笑んで俺にお礼を言ってくれた。とりあえず、この微笑みの分くらいは努力してメニューを覚えよう。笑いをこらえていた瑞希さんも「こいつ言うじゃん」みたいな顔をして俺のことを見てニヤついている……というかホッコリしてる?



「労働基準法の観点からも、労働時間や休日などはきちんとするから安心してくれ。さあ、まずは内装を整えないと。二人とも、早速だけどこれから手伝ってくれ。もちろん労働時間に含めるよ」



 そうして文乃さんは事務所を出て一階に向かった。どうやらテーブルの位置や椅子の数などの調整をするのだろう。あとは、段ボールに入っている資材の開封とかだろうか。どちらにしろ夜までかかりそうだ。覚悟して挑まねば。



「ったく、いきなり決めやがって。ほら、さっさと行くぞ……ま、舞宵」


「え、あっ、はい!」



 俺が立ちあがるよりも早く瑞希さんが立ち上がって扉のところで俺を待っていた。しかも、照れつつ俺のことをきちんと名前で呼んでくれている。あれ、何だろうこのギャップ萌えは。思わずキョドって言葉を詰まらせてしまった。



 そうして俺たちはお互いに照れを隠すべく急いで一階へと降りていった。そうすると文乃さんがアグレッシブに椅子をテキパキ運んでいた。俺たちがやってきたのを目にして、彼女はすぐに指示を出す。



「舞宵君、テーブルを運びたいから一緒に運んでくれ。それが終わったらテーブルクロスもだ。瑞希ちゃんはそっちの段ボールにコーヒー用のカップが入っているから、洗って拭いてそこの棚に並べてほしい、綺麗にね」



 文乃さんの指示を聞いてすぐに動き出す俺と瑞希さん。というか文乃さんの指示ってなんだか聞いていて心地がいいな。彼女の発言一つ一つに自信が込められているからか、その指示を信じて全うすることができる。司令塔……上司としては理想的な人材なのかもしれない。



「テンチョ、拭く用の布ってどこ?」


「一緒に段ボールに入ってるよ。あと、水道はお湯も出るから瑞希ちゃんの好みで調整してくれ」


「りょーかい」



 俺が文乃さんと一緒にテーブルを運んでいる間も瑞希さんは気になったこと一つ一つにズバズバ切り込んで質問している。この五分間で四回は質問しているのではないだろうか。素っ気ない態度をとっているように見えるが、瑞希さんもこの店のために尽力しようとしているのかもしれない。



「舞宵君、いったん椅子運びを頼めるかな。私はすぐにやらなければいけないことができてね」


「はい、わかりました」



 瑞希さんはカウンターへ行き何やら袋を漁り始めた。先ほどまでカウンターにいた瑞希さんはと言うと実際に使うコーヒー豆を取りに二階の倉庫とカウンターを往復していた。退院直後とはいえ俺はあそこまで動けないだろうし、文乃さんも運動が得意そうには見えない。となると、この中で一番体力があるのはもしかしたら瑞希さんなのかもしれない。



 作業は一時間ほど続いた。俺が最後のテーブルにクロスを敷き終わるころにはすっかり日が暮れており、瑞希さんも息を切らしていた。そして同時に文乃さんが俺たちに招集をかける。俺と瑞希さんはカウンター席へと隣り合って座る。



「二人ともご苦労さま。おかげですぐにでも営業を始められるくらいには整ったよ。ご褒美というわけではないが私が作ったサンドウィッチだ。店で出す予定のやつでもあるね。試食の意味も含めて食べてくれ」



 どうやら文乃さんが行っていた作業は俺たちの晩飯を用意することだったらしい。給料ももらえてまかないが出るとか、ここはホワイト企業か?


 俺がそう思っていると文乃さんはサンドウィッチの横にコーヒーも出してくれる。そして厨房であるカウンターの奥へと向かってゆく。ちなみに厨房部分は壁があって見えないようになっている。



「ついでにスパゲッティも作ってみるよ。コーヒーが冷めるとおいしさが半減してしまうから私のことは待たず先に食べていてくれ」


 

 どうやら文乃さんはスパゲッティも作ってくれるらしい。どのスパゲッティ料理かはまだわからないが、このサンドウィッチのクオリティを見るに相当期待できそうだ。



「……いただきます」



 俺がサンドウィッチを眺めていると隣で瑞希さんが手を合わせているのが見えた。口調は雑なのに、挨拶や所作はものすごく丁寧だ。このまま眺めていても睨まれそうなので俺も手を合わせて食べることにする。



「いただきます」



 そうして俺はサンドウィッチを頬張った。ハム、レタス、チーズにトマトとシンプルな中身だが、パンに塗られているソースがとてもおいしい。しかも野菜は瑞々しいし、ハムは厚くて食べ応えがある。チーズだってかなり濃厚だ。素材の一つ一つに文乃さんがこだわったことが伺える。



(めちゃくちゃ美味しい……おっ)



 俺の横で、静かにサンドウィッチを頬張っている瑞希さんの姿が目の端に映る。普段は口をまっすぐ結んでいるようなイメージだが、この時ばかりは微笑みながらサンドウィッチを食べていた。美味しいものはどんな人でも笑顔にするという証拠だろう。



「……おい、何見てんだよ」



 思わず見入ってしまったためか、瑞希さんとバッチリ目が合ってしまった。先ほどまで微笑んでいた口元が今は少し不機嫌そうだ。ここは、とりあえず正直に言っておくべきだろう。



「すみません。その、瑞希さんが美味しそうに食べるものだから見入っちゃいました」


「……馬鹿」



 俺がそう言うと瑞希さんは少しだけ拗ねて再びサンドウィッチに齧りついた。俺の言葉のせいか、頬も少しだけ染まている。少し申し訳ないことをしてしまっただろうか。




 そうして俺たちはこの後文乃さんが作ったナポリタンとカルボナーラをそれぞれ小皿に分け、向かい側に座る文乃さんと様々なことを話しながら温かい料理を食べ進める。彼女が作ったナポリタンとカルボナーラはサンドウィッチに引けを取らないくらい絶品で病院食とは大違いだった。これが彼女が目指す温かみを感じてもらうというやつなのだろうか。



「「「ごちそうさまでした」」」



 文乃さんの料理を食べ終えた俺たちは協力して後片付けを行い明日の予定を確認し合う。どうやら今日の作業はここまでで本格的な練習は明日に行うようだ。俺は明日訪れる猛特訓に備え、疲れきった体をゆっくりと休めるだった。

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