13.悪夢と毒
また夢を見た。
『もう桜とは二度と会わない』
何度も見た夢だ。幼い頃の彼が酷く傷ついたような顔で、桜を強く睨みつける。絶望と恐怖で、また体が強張っていく。
『あなたはどこまで私を傷つけるの』そう言ったのは義母だ。彼女の瞳には嫌悪と、何か恐れのような物が浮かんでいる。それから微かに、憐れみも。
『なぜお前が生き残った』
そう言ったのは、父だった。
何故なのか桜にはわからない。
唯一つわかるのは、自分が誰にも望まれていないこと。それだけだった。
◇
「花桜様、あの……本日は休まれたほうが」
起きた桜の顔を見て、朝顔が青ざめる。
涙は出ていない。だから目も腫れていない筈なのに、自分はよほどひどい顔をしているのだろうか。
頭も体も重く、鉛が詰まっているかのようだ。
「顔色が酷く悪いです。医者を呼びます」
「いらないわ。顔色くらい、化粧でどうにでもなるでしょう」
自分の口から出た声は、ひどく冷たいものだった。朝顔が驚き戸惑う。しかし今日は本当に休めない。馬の試練の日だ。
こんな日に休んでは、皇后の資質を疑われる。
「終わったらいくらでも医者を呼ぶわ。いいから早く用意を」
有無を言わせない強い口調でそう言うと、朝顔は泣きそうな顔をしながらも「……はい」と頷いた。
いつもより少し濃いめに化粧を施してもらい、顔色の悪さを誤魔化すようにこれも濃い色のつつじ色を身につけた。化粧と着物とで、おそらく桜の体調の悪さを、誰も気づいたりはしないだろう。
会場に入ると、やはり今回も人が多い。桜が入場すると地響きのような歓声が鳴り響き、桜は微笑を浮かべて用意された席へと歩いた。軽い吐き気を覚えるが、悟られるわけにはいかない。
今日、帝は姫君と同じ席に座るようだ。中央に帝が座り、その左右に二人ずつ姫が座る。左端に桔梗、蝋梅、帝を挟み桜、白萩という並び順だった。
よりによって今日、粗相の許されない帝の隣に座ることは避けたかったが、仕方ない。既に席に着いていた帝に微笑み、隣に座った。
「やあ、花桜。贈り物は気に入ってくれただろうか」
「はい。非常に貴重で美しい品を、ありがとうございました。肌身離さず身につけております」
「それはよかった」
微笑む帝の瞳は今日も、底が見えない。そうしているうちに他の姫君も揃い、花の儀は始まろうとしていた。
馬の試練は馬に乗るだけなのかと思っていたが、どうやら
重い着物の内側に、じっとりと汗が滲む。まず一番最初は、先日馬を触らせてくれた茲親だ。緊張しているのだろう、固い表情で馬を走らせ、矢を射る。五本中四本が的に当たり、点数も高いようだ。
次は橘だ。相変わらず森の奥の泉のような、静謐な空気を湛えている。彼が馬を走らせると、風が吹いた。重い頭で、じっと彼を見る。
橘はいつでも美しい。
愛される者が持つ輝きがある。愛されるに足りる能力も、それに見合う努力もしている。
橘の射った矢は全て的の、それも正鵠に当たった。凄まじい歓声が鳴り、またあの日のような嬉しそうな、誇らしそうな顔を桜に向ける。桜も完璧な微笑を返した。すると橘は顔を曇らせ、不審そうに桜を見つめる。気づかれただろうか。
「冗談だろう、あいつは。化け物か」
帝がらしくなく心底驚いたように言った。横の白萩も、蝋梅も桔梗も、驚きに声も出ない様子だった。
もう橘の勝利はほぼ確定しているようなものだ。後の二人はさぞやりにくいだろうな。そんなことをぼんやり思いながら、桜はあと少し、あと少しと唇を噛み締めた。
◇
勝者はやはり、橘だった。
「驚きに言葉も出ない。次はどんな奇跡を見せてくれるのか、楽しみにしている。花桜、労いを」
もう少しだ。桜は橘に微笑みかけ、口を開いた。
「素晴らしい技を見せてもらいました。あなたを誇りに……」
そう言いかけて、ぐらりと視界が揺れた。
(ああ、もう少しだったのに……)
最後に見たのは、驚きに歪む橘の顔だった。
「桜!」
もう呼んでくれる人はいない筈の、桜の名前が聞こえた。
またあの夢が始まるんだ。怖い。
地面に体がぶつかることを覚悟したのに、懐かしい匂いが桜を抱き止めた。確かめる余裕もないまま、そのまま桜の意識は途切れた。
◇
「……悪夢を見……と……毎晩……魘され……」
「この状態……なぜ……なかっ……」
途切れ途切れに声が聞こえる。朝顔の震える声と、男性ーー帝だーーの声。それから、頬を撫でるかさついた大きな手のひらを感じた。懐かしい感触だ。すぐに離れていってしまった。もっと触っててほしかったのに。
ああでも、悪夢ではない。じんわりと、体が楽に温かくなっていく。
起きなきゃいけないのに、ずっとこうして眠っていたかった。
夢は見なかった。
ただただ久しぶりに、何も考えずに、眠ることができた。
重い瞼をこじ開けると、倒れる前に感じていた吐き気は無くなっていた。
「お目覚めになりましたか」
飛び込んできたのは、とびきり美しい青い瞳。蝋梅だった。慌てて起きあがろうとするとくらりと目眩がして、蝋梅が背中を優しく支えてくれる。
「蝋梅様……」
「殆どの内臓が、ひどく弱っていました。極度の疲労も。随分眠れていなかったようですね」
蝋梅が優しく微笑むと、「もう大丈夫ですよ」と笑った。
「少々お待ちを。花桜様のお目覚めを伝えて参ります」
そう言って桜を布団に寝かせると、音もなく出て行った。
ーーそうか、結局自分は倒れたのか。見慣れない天井を睨みながら、唇を噛み締める。
折角橘が頑張ったのに、一つ皇后が遠のいた。元々体が強い方だというのに、何でこんな時に。
深くため息を吐いていると、バタバタと足音が聞こえた。誰かが走っているようだ。
「桜!」
部屋に物凄い速さで走ってきたのは橘だった。桜は思わずぎょっとする。自分よりよっぽど疲れ切った顔をしているのに、目だけがギラギラとしている。おまけに今にも泣きそうだ。
「ごめん、気づかなかった、こんなになるまで」
「え、いやちょっと……あなたのほうがどうしたの」
「君が眠ってる間の一週間、いくら言っても飲まず食わずで寝てないんだ。参ったよ」
帝が困った顔で入ってきた。その後ろにいた蝋梅が、そっと桜の横に座り、起き上がるのに手を貸してくれた。
「一週間……?」
そんなに眠っていたのか。愕然としていると、蝋梅が「それでも回復は早いほうでしたよ」と微笑んだ。
「そうだな。蝋梅が付き添い治癒してくれたから助かったものの、後少し遅かったらお前は命を落としていた」
「命を……?」
「毒だ。千年前、言い伝えの時代に使われていた、いにしえの忌まわしい毒」
帝のやけに静かな声に、桜の背筋は寒くなった。
「その毒は一番辛い記憶を毎晩悪夢にして見せ、体をじわじわと蝕んでいく。黒龍の瘴気に当てられたと伝えられる、帝のように」
自分は毒を盛られていたのか。そして黒龍の瘴気とは言い伝えでなかったのか。じわじわと迫り上がる恐怖に震える指先を、橘が握った。
驚いて彼を見たが、彼は握った手を睨むように見つめている。彼のこの顔は見たことがある。高熱を出した桜の手をじっと握っていたあの時だ。
思い出したら何となく泣きそうになって、桜も手に力を入れた。
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