12.手遅れにならないうちに
生まれて初めて触れる動物は、人間とは全く違う。
濡れた瞳に長いまつ毛。短い毛の下に、鍛えられた筋肉が感じられた。
「わあ!本当に、ごわごわ……!固い!」
「そうでしょう。花桜様が小袿でなければぜひ乗って頂きたいのですがね」
「残念だわ……きっと乗れたら、とても良い気持ちなのでしょうね」
盛り上がる桜と茲親を、橘は氷点下の笑みで見ている。今日の橘は機嫌が悪そうだ。その様子を何とも言えない微笑み顔で、朝顔が眺めている。
「それじゃあ私から先に馬に乗りますね」
そう言うと慣れた様子で茲親が馬に乗る。人一人乗せても馬はびくともしない。その様子すらも頼もしく、桜は歓声を上げた。茲親は少し微笑んで、そのまま馬を走らせる。一瞬で、遠くへ行くものだ。風のようだ。
「まあ、あんなに遠くまで」
「早いわ!」
朝顔と二人ではしゃいでいると、橘が笑みを崩さず口を開いた。
「花桜様がそこまで馬がお好きなら、もっと早くにお見せすればよかったです」
「好きか嫌いかもわからなかったの。連れてきてくれた朝顔に感謝ね」
「花桜様の気分が少しでも良くなればと思いましたが、散歩に出て正解でしたね」
朝顔の言葉に橘が眉を上げた。確かに顔色が、と桜の顔をまじまじと見る。
このままでは早く休めと帰される。そう思い、口を開いた。
「そういえば、届けさせた茶器は受け取った?」
先日の試練で一位を獲った橘に、丁度今朝茶器を贈ったのだ。
前に約束をした、相手の無事を願い自分の持ち物を渡すという品物に茶器を選んだ。散々悩みに悩んだが、桜の持ち物の中で一番価値があり、かつ男性が持っていてもおかしくないものと言えば茶器しかない。
「ええ、ありがとうございます。大事に使わせて頂きますますね」
橘は微笑んだ。よかった、茶器で正解だったようだ。
そしてそっと懐を触る。中には、小さなお守りが入っていた。
元々、無事を願い渡すもの、という意味から連想してお守りを用意していた。外の袋は桜が縫い、女官に頼んで用意してもらった小さなお札が中に入っている。
試練の間の怪我もそうだが、武士になった以上、きっとこれから彼も戦うことがあるだろう。
彼に怪我をしたり、命を失ったりはしてほしくない。
(……ただ、別に私から貰ったところで、嬉しくないわよね)
お守り自体に大した価値はない。それにきっと、彼の母親や桔梗が彼の無事を願っているだろう。
出来上がったところでその事実に気づいて、慌てて茶器を用意した。お札の入ったお守りを捨てるわけにもいかず、さりとて橘のために作ったものを人に下げ渡すわけにもいかず、取り敢えず懐に入れて持ち歩いている。
「あ、戻ってきました」
朝顔の言葉にハッとして前を見ると、茲親の乗った馬が戻ってきた。
「お前の番な」
茲親の言葉に橘は一瞬桜の方を見て、すぐに戻ってきますから、と声をかけてひらりと馬に飛び乗った。
馬の上に乗る橘は、背筋が伸びて一際格好良かった。先ほどの茲親よりも早い速度で駆けていき、すぐに小さくなる。小さくなっても、橘の姿はよく見える。
その間、茲親は桜が退屈しないように橘の話しをしてくれた。
意外なことに橘とは、思ったよりも仲は悪くなさそうだ。橘が武士になった時に、茲親の生家である西乃園家で鍛錬をしていたらしい。
「最初は、大公家の坊ちゃんが何の用だと思っていたんですがね」
茲親がため息混じりに言った。
「橘には確かに才能がありました。でもそれ以上に、異常なほど鍛錬をしていました。体を壊さないのが不思議なほどです。流石にあれをみたら、公家の坊ちゃんとは言えません」
「あなたは、橘が嫌いだと思っていたの。いつも睨んでいたでしょう」
「嫌いですよ。だってあいつは、別に武士になりたいわけじゃない」
吐き捨てるかのように言う茲親は、苦々しい顔で橘を見ている。
「あいつにとって武士とは唯の手段です。俺が命を賭けている物を、あいつは唯の道具にしている。腹が立って仕方がありませんが、まあこの花の儀を迎えて、最近はあいつの目的が何となくわかって……何だか哀れになってきましたね」
「哀れ?」
「あいつの気持ちは生涯報われないということです。なあ女官殿」
謎かけのような言葉に聞き返すが、茲親はこれ以上何も教えてくれなさそうだった。
むう、と朝顔を見る。頷いている朝顔もわかっているようだが、桜に教える気はなさそうだ。
(武士になりたいわけじゃないんだ、橘は)
じゃあ彼は、一体何を目指しているのだろう。何度も何度も考えた疑問がまたよぎる、
聞いたら教えてくれるかもしれないけど、桜がそこまで踏み込むことを、多分橘は望まない。
桜だって、彼にとっては手段の一つでしかないのだから。
それに尋ねたとして、と胸に冷たい水が満ちたような心地になる。
「あなたには関係ないでしょう」と、またあの冷たい目を向けられたら、今度こそ立ち直れない、かもしれない。
信じたくないのに、最後の細い糸にしがみついている自分は、何て愚かだ。
いつだって求めるのは、知りたいのは、桜の方だ。
彼が桜を思うことなど、唯の一度も、ほんの僅かにでも、ありはしないのに。
◇
橘が戻ると、それではそろそろ、と茲親が言った。朝顔が、宮中の庭園の入り口まで着いていき、丁寧にお礼を言っている。
私たちももう帰る時間かなあ、と桜は名残惜しく橘の馬に触れた。先ほど触れた茲親の馬より熱い。走ったからだろうか。
(どうか橘を守ってね。落としたりせず、ずっと乗せてくれますように)
そう祈りながら撫でたところで、あ、そうだと思いつく。
「ねえ、橘。これをあなたの馬にあげたいの。鞍のあたりにつけたら邪魔かしら」
懐からお守りを出す。橘個人に渡すのはやっぱり気が引けるけれども、馬にならあげても負担に思われないだろう。
「お守り、ですか?手作りのようですが……」
「うん、私が作ったものなの」
「えっ」
橘が絶句する。その様子にちょっと慌てて、桜は言葉を重ねた。
「別に失敗作じゃないわよ、ちゃんと女官に頼んで神社のお札も入れてもらったし、外の袋を私が縫っただけで」
「どなたのために作ったのですか。その方にあげた方が……」
「………………あなたよ。祝福って無事を願うものって聞いたから、最初はお守りが良いのかと思ったの。でもやっぱり価値のある物の方が良いでしょう?だから茶器に」
「茶器はお返しします。俺はこのお守りがいい。馬ではなく俺にください」
素っ頓狂なことを言い出した橘に、桜は狼狽えた。
「え……いや、茶器は返さなくてもあげるけど……。これ、別に価値はないのよ。普通の布よ?」
「ではください」
桜が渡すと、橘は心の底から嬉しそうにはにかんだ。
日に照らされた頰が微かに赤い。
「……あなたが俺の無事を祈って、作ってくださったんでしょう?」
「そうだけど、でも初めて作ったから……ちょっと不恰好かもしれない」
裁縫なんて生まれて初めてしたのだ。初めての割には上手だと、周りの女官は褒めてくれたけれど自信がない。
「糸が出ようが解けようがガタガタだろうが、俺はこれが良いんです」
「そこまでひどくないわよ。ちゃんと見て」
「嘘ですよ。お上手です」
橘が手の中のお守りを宝物のように握りしめたあと、桜の顔を優しく見つめた。
慈しむような眼差しに、頰が熱くなるのを感じる。
「……本当に、嬉しい。あなただと思って、大事にします」
あ、まずい、と思った。
「そう。怪我しないように頑張ってね。疲れたからそろそろ帰るわ」
「では、お送りします」
「朝顔と帰るから大丈夫。あなたは馬の練習をして、次の試練も勝ってちょうだい」
そのまま橘の顔も見ずに、こちらに戻る途中の朝顔の方まで急いだ。彼女は驚いた顔をしている。
でもそれどころではない。頭の中がぐるぐるしている。
まずい。危ない。まずい。だめだ。
「花桜さま!お顔が赤いですが、体調は……」
「少し疲れたわ。戻って休みたいの」
熱くなった頰を、二月も下旬の風はちっとも冷ましてくれない。
先ほどの橘の、慈しむような眼差しがかつての桜の恋心を呼び起こしそうになる。だめだ、と勝手に締め付ける胸をやり過ごすかのように、深く息を吐いた。
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