02.弱点

 



「どうかなさいましたか」


 考え事をしていた桜を訝しむように、橘が顔を覗いた。どことなく心配そうな表情は、仲のよかった頃と同じものだ。

 ふつふつと怒りが込み上げる。「別に」と目を逸らすと、橘が自嘲気味に笑った。


「……武士に身を窶した男に、馴れ馴れしくされるのはお嫌でしょうか」


 心外だ。差別主義者はそっちの方だ。橘だから嫌なのだ。


「武士を悪く思ったことなんて私は一度もないわ」


 武士は、公家から野蛮だと見下されている。しかし、昨今公家の力は徐々に翳りを見せていて、代わりに力の強い武家が台頭してきた。注目こそすれ、蔑むはずがない。


「そろそろ武士の時代がくるもの。西園寺家の御子息なら武士になっても高い位置につけるでしょう」


 桜の言葉に、橘は眉を上げた。


「相変わらず聡明な方ですね」

「……馬鹿にしてるでしょう。その話し方、何なの」

「あなた様の近衛武士ですから」

「私は嫌!」

「それでももう、変えようがありません」


 飄々とした顔が憎らしい。自分を敬う気などないくせに。


「私の近衛武士というのなら……」


 言いかけて、口を噤む。

 素直に協力を願って、橘が協力してくれるとは思わない。


 蛙、蛇の抜け殻、高熱を出した顔にかけられた水、花でかぶれた日々を思い出す。あの時の自分は何て純粋だったのだろう。あれが贈り物なわけがなかった。善意の振りをした嫌がらせだ。


(極悪非道だ……そんな人に頼んでも、余計に協力してくれなくなるかもしれない。何て言えばいいんだろう)


 桜が顔を顰めて悩んでいると、掠れた低い声が聞こえた。


「………………安心しろ、協力するから」

「えっ」

「……失礼しました。協力致します。次期皇后の近衛武士になったら、俺にも箔が付く。それにあなた様に協力しなければ俺の将来にも差し障りが出ますからね」


 投げやりに言う橘の言葉に、納得した。

 確かに、皇后候補の近衛武士は武士にとっては誉れになる。傍目で見てわかるくらい手を抜けば、橘の将来が危うくなるだろう。


 良かったあ、と安堵し頰が緩む桜を、橘が不服そうに「俺のことより、ご自身の心配を」と眉を顰める。


「あなた様が他の姫君に勝る長所は何かご存知ですか?」


思い浮かばず言葉に詰まる桜を、橘が真剣に見つめる。


「あなた様の取り柄は、顔です。他の姫君よりも目立つ特技は、今のところ見た目しかありません」

「……ひどい!」


 事実です、と涼しい顔で橘が言う。


「別に馬鹿にしているわけではありません。あなた様のご両親は、何故かあなた様を皇后にしたいと思っていない。噂を聞く限り、圧倒的に根回しも教育も不足しています。他の姫君よりも不利でしょう。特に今代の帝は、女性の美しさに重きをおいていませんから」


 その通りだった。


 橘の言う通り両親は何故か、桜が皇后になることを嫌がっている。良い扱いをしてこなかった妾の子が権力を握るのが嫌なのかもしれない。

 桜は妃選びの場に立って不敬にならないギリギリ程度の浅く広い教育しか受けていなかった。幼少時から皇后を目指し教育されているであろう他の姫君と比べて、圧倒的に不利だ。


「しかし教養は、すべて努力で身につけられるものです。俺も元は次男とはいえ大公家の一員ですから、身につけるべきものはすべて身につけていると自負しております。それをすべて、あなた様にお伝え致します」


 そこまで言って、橘は表情を和らげた。


「……俺があなたの願いを叶えますから。どうか、安心なさってください」


 桜は一瞬ぽかんとした後、目を逸らした。気を引き締めなければ。

 どんなに親切そうな素振りをされても、絶対に、二度とこの男を信じない。



 ◇



 花桜の宮に案内をした女官ーー朝顔は、不穏な桜と継母との空気を感じ取り誰か人を呼びに行ったところ、橘と会ったそうだ。


「動揺して言葉が出ない私の様子から、御身の危機をすぐに察してくださいました。さすがは聡明で名を馳せた方でございますね」

「御身の危機って……そこまでじゃないのよ。でも、ありがとう」


 ずっと本を読んでいた桜が目頭を抑えたのを見て、朝顔が葛湯をいれ世間話を始めた。休憩を促しているのだろう。

 疲れた脳に甘い葛湯が染み渡り、ほうっと吐息をつく。


 桜が花桜の宮にやってきてから一週間が経った。


 甲斐甲斐しく世話をやいてくれる朝顔は桜付きの女官だ。花桜の宮付きの女官という印に、淡紅色の小袿に赤い袴を身につけている。くるくる回る表情が愛らしく、おしゃべりだ。しかし桜が一人になりたい時などは誰よりも早く察して、それとなく桜を一人にしてくれる。



「橘様は和歌や漢語にも優れ、東の大陸だけでなく西方の文化にも精通されていらっしゃるとか……本当に、武士になるとはもったいない……されど精悍な武士のお姿は尊いの極み……」


 朝顔はうっとりするように頰に手を当て、やや引き気味の桜の視線にハッと気付いたように失礼しました、と言った。


「橘様の授業はどうなのですか?」

「……教え方は、確かに上手よ」



 桜は気づかれないよう嘆息した。

 初日のような、蛇蝎の如く嫌う気持ちは、薄くなって来ている。

 彼は優秀な教師だ。とても優秀な、鬼だ。


 桜が自由に出入りできる宮中には国中の本を集めた図書寮があり、そこでは好きなように勉強できる場所があった。

 そこで二日に一度、桜は橘にしごかれ、山のような宿題を出されている。


 最初はどうせ見下し嘲笑されるのだろうといじけながら授業を受けたが、意外なことに橘は桜を嘲笑うことはなかった。


「あなた様には根性があります。一生分、発揮なさってくださいね」


 そう淡々と微笑んで、桜のあまり働いたことのない脳へぎゅうぎゅうに知識を与え、悲鳴をあげる海馬に笑顔で無理を強いるだけだ。


 しかし根を上げることは許されない。引き攣りながら、「顔だけが取り柄と言ったことを撤回させる」「皇后になった時に褒め讃えさせてやる」「昔のこともいつか絶対謝罪させる」と、それだけを目標に毎日勉強をしていた。


 桜の涙ぐましい努力を、朝顔は勤勉だと褒めてくれる。そして橘は、それを支える優秀な美丈夫だと思っているようだ。


「きっと、教え方もお優しいのでしょうね……」と、橘に思いを馳せてうっとりとしている。この宿題の量を見ろ、と桜は思う。言わないけれど。


「橘様は、次男にするには惜しいと名を馳せたお方ですから、いずれは大臣になるのではと皆噂をしておりました。宮中の独身女性は皆、橘様に夢中だったのですよ」

「はあ……」

「しかし、どんな美しい女性や公家の一人娘からの縁談にも靡かなかったのです。思い人がいらっしゃるのではないでしょうか」

「どうでしょうね……」


 手元の葛湯に目を落とす。


 あの極悪非道な橘も、恋をするのだろうか。

 その人には、優しいのだろうか。

 かつて私に与えたような、偽物じゃない優しさとはどんなものなのだろう。



 どちらにせよその相手は自分ではない。

 幼い頃に死んだはずの恋心が、ほんの少しだけ疼いたような気がした。


(どうでもいいや。どうせ花の儀が終わったら、もう会うこともないのだから)


 桜は葛湯を置き、また本に目を戻した。



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