01.過去

 



 この和の国には、こんな伝説がある。


 当時の帝が遠い大陸に住むという災厄の象徴ーー黒龍が吐いた毒気に当てられ、お倒れになった。

 帝に恋をした花の女神が一人の武士に祝福を与え、その武士は帝に仕える四獣と共に帝を助けるために黒龍に立ち向かい、苦難を乗り越え見事黒龍を封印した。


 そうして回復した帝は女神と結ばれ、国は繁栄した。女神の祝福は花吹雪となって四獣の上に降り注ぎ、その獣は人となった。

 この時の四獣が、後の東一条家、西園寺家、南條三家、北小路家の祖先と言われている。


 その伝説に倣い、皇后選びは花の儀が開かれる。

 四家の血を引く姫君の近衛武士に、試練が与えられる。その試練の結果を以って、次期皇后が決まるのだ。


 と言っても試練は今や形骸化している。武士の試練は余興のようなもので、姫君個人の資質が何より重要視される。最終的には帝の判断だ。


 皇后になり得なかった場合には、そのまま宮に住み帝の側室となるか、他の高位の公家に嫁ぐか選ぶこともできる。

 しかし桜は側室になる気も、高位の公家に嫁ぐ気もなかった。


 狙うは一つ、皇后の座。


(それなのに、それなのに……近衛武士が橘。神様は私が嫌いなのだろうか)


 桜は、花桜宮に案内する女官の後ろを歩きながら、気づかれないよう吐息を吐いた。


 いくら姫君自身の資質が重要視されるとはいえ、近衛武士自身にやる気なしと判断されればその主君である桜は人の上に立つ資格なしと見做されてしまうだろう。橘が桜のためにやる気を出すとは、思えない。



 懐柔案を必死に考えていると、後ろから怒気を孕んだ声で名を呼ばれた。




「三の姫」


 振り返らなくてもわかる。


 煩わしさを面に出さず振り向くと、そこには鬼のような形相で桜を睨みつける義母が立っていた。驚く女官が、サッと庇うように桜の前に立つ。目の前の義母の顔がさらに歪む。


「……大丈夫、わたくしの母です。少し二人でお話しさせてもらえるかしら」


 桜の言葉に、女官が逡巡した後不安そうに頷いて、その場から離れた。女官が去ると義母は桜に詰め寄った。


「何故お前の近衛が西園寺家の息子なの。慣例では東蓮寺の者になるはずでしょう」

「わたくしも存じません」

「やはり平民風情の血のせいなの?東一条家が抱える武家が選ばれなかったなんて末代までの恥よ。あなたはどこまで私を苦しめれば気がすむの……!」


 話しているうちに気が昂ったのか母が手を上げ、振りかぶる。桜は目を瞑りこれから来るだろう痛みに身構えた。ーーが、やってこない。


「西園寺の……!」


 義母の憎々しげな声を訝しんで目を開けると、桜の目の前に背の高い男が立っていた。


 橘だ。息を呑む桜をチラリと振り返り、「大丈夫か」と声をかけた。驚いて桜が頷くと、ほんの少しだけ目を和らげて義母に視線を戻す。


「花桜様は既に皇后候補。御母堂とて、手を出すことは帝に逆らうも同義にございます」


 義母が些か怯みつつも、「あなた様には関係のないこと」と橘を睨みつけた。橘は表情を崩さず、淡々と言葉を返す。


「私は既に花桜様をお守りし仕える身。主君に仇なす方はどなたであっても見過ごすわけにはいきませぬ。どうぞ、お引き取りを」

「……お似合いね。この東一条家に名を連ねることすら烏滸がましい女が、武士に身を窶した公家の恥晒しに守られて皇后など狙えるものですか」


 憎々しげに吐き捨てて、義母は去った。橘が口を開く。


「昔は暴力はなかったように思いますが、普段から暴力を振るわれていたのですか?」

「いいえ、今日が初めて……」


 混乱しながら桜は答えた。橘が自分を庇う日が来るなんて、夢にも思っていなかったのだ。

 桜の言葉に、橘は厳しい目を少し緩めた。そして柔らかく微笑んで優しく口を開く。


「それなら良かった。これからは、俺がお守りしますから」


 聞き慣れない敬語だ。しかし浮かべる笑顔も優しさも、あの頃と変わらない。


 一瞬心が浮き立ちそうになった。


(騙されちゃだめ、思い出せ)


 そんな自分を責めるように、八年前の、過去を思い出した。




 ◇◇



 桜の生母は、和の国で一番美しいと讃えられた女性だった。

 しかし下級役人の、平民同然の家格に生まれた母にとってその美貌は、過ぎた毒だったのかもしれない。


 母は既に正妻のいた東一条家の当主に見初められ熱烈に求婚された。

 大公家に、下級役人が逆らえる筈もない。母は当主の妾となり、深い寵愛をその身に一身に受けた。小さい、しかし粋を極めた美しい屋敷に住まわせ、少数の女官とひっそり当主の訪れを待つ。監禁されているかのように、自由は許されていなかった。


 そのうちに母は桜を身篭り、出産と同時に命を落とした。だから桜は母の顔を知らない。このいきさつも、口さがない使用人の噂話を耳にして知っただけだ。


 桜は本宅の離れに引き取られたものの、避けられているのか父の顔は殆ど見ることはなかった。正妻である義母は桜をいない者として扱い、時たま思い出したように罵倒した。腹違いの兄弟は桜の顔を見ることすらない。ばったり会ってしまっても、顔を逸らされて逃げてしまう。


 そんな桜を相手にする者など誰もいなかった。


 桜を構ってくれたのは、次男の友人だった橘だけだ。だから桜は、幼い頃は橘が好きだった。


 桜の存在はいつも透明だったのに、この幼馴染はいつも桜の目を真っ直ぐに見て、可愛いと言ってくれた。

 人と会うことは許されていない桜に、橘はいつもこっそり会いにきてくれた。


 しかし、構い方は最悪だった。でっぷりと太った色とりどりの蛙を桜の部屋に何匹も入れたり、指輪をあげるから目を閉じて、と言ってワクワク待つ桜の指に蛇の抜け殻を巻いたりした。


 熱が出て寝込んでいる桜に水をかけてきたこともあったし、簪と称して凌霄花のうぜんかずらの花を丁寧に頭に飾ってくれて、ひどくかぶれたこともあった。


 そして桜が困るたびに、泣きそうな顔をして謝るのだった。それでもめげずに贈り物を用意するものだから、桜は毎回、恐る恐る受け取った。



 楽しかった日々の終わりは呆気なかった。

 ある日突然、橘は桜の住む離れに来てくれなくなってしまった。今までは、三日と空けずに来てくれたのに。

 屋敷の外に出るのは許されてなかったから、毎日屋敷の門のあたりで待ち伏せをし、兄に会いに訪れた橘を捕まえた。そして拒否された。


「お前と俺では住む世界が違うだろう」と、彼は言った。彼は大公家の父と、由緒正しい公家の姫君の母から生まれた愛された子であった。


「それは……それは、そうかもしれないけど……」


 どうしてそういうことを言うの。その声は、言葉にはならなかった。

 桜の母が下級役人の娘で、妾であることは橘は元々知っていたはずだった。どうして今更、と言葉が喉に張り付いて視界がぼやける。瞬きをすると、ぼたぼたと涙が頰に落ちた。その顔を見た橘が顔を背ける。


「もう、桜とは二度と会わない」


 吐き捨てるかのような言葉に、見下されていたことを知った。

 ショックを受ける桜に自分の方が傷ついた顔をして、橘は何も言わずに去っていった。


 そうしてその後、数日経って久しぶりに父に呼び出された。苦々しい顔で、何故か可愛がっていた姉二人のどちらかではなく、桜が皇后候補に選ばれたことを告げられた。


「お前が皇后になるなど、有り得んがな。皇后を決める花の儀が終わった暁には、尼になれ」


 吐き捨てるかのように言った父の言葉に、桜は唇を噛み締めた。

 その夜もう誰も訪れることのない離れで一人、桜は泣いた。泣いて泣いて泣き尽くした。



 誰にも見下されることのない、至高の座につきたい。

 もう二度と傷つけられることのない地位が欲しい。


 もう、妻になりたい男の人は桜の中で死んでしまった。

 だからその時、皇后になることを決めたのだった。



 それでも橘を諦めきれず、愚かにもこっそり文を送った。

 ただの妾の子なら駄目でも、皇后候補の自分を見直したりはしないだろうか。


『皇后候補に選んで頂きました。絶対に皇后になります』


 だから仲良くしてほしいとは、惨めで書けなかった。


 心のどこかでは「皇后にならなくてもいい」と言って欲しかった。橘の思い出が、桜を『かわいい』『大事だ』と言ったあの声が、亡霊のように浮かび上がる。


 返事は返ってこなかった。父と同じように、桜が皇后になる筈はないと思っているのだろう。



 涙はもう、出なかった。



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