花の雨の下、冠を捨てられたら

皐月めい

0.プロローグ

 



『はるか西の国では、男が女の指に輪をはめて永遠の愛を誓うんだ。ずっと一緒にいられるように』

『輪?』

『そう。金や銀でできているそうなんだけど、あいにく手に入らなかった。だからそれよりもっといい、俺の宝物で桜の指に輪を巻いてあげる』


 ーーだから、ずっと一緒にいよう。




 幼い頃のあの夢は、もう絶対に、叶わない。






 ◇




 震えるような笛の音が響いた。



 帝とその母である皇太后を始め、名だたる高官たちがずらりと揃うこの花の間に、帝の妃候補となる四人の美姫が、静かに現れた。


 全員が匂い立つような美姫だった。

 しかし、その中でとりわけ目を引いたのは東一条家の三の姫ーー桜である。


 長い黒髪がさらりと揺れる。

 濃い睫毛に縁取られた瞳は濡れて艶めく黒曜石のようで、輝く雪の白肌に、薔薇色の頬と唇がいとけない。

 透き通る無垢な瞳は、直視することも躊躇われる。そんなこの世のものとは思えない美しさにその場の全員が息を呑む。


 身につけている淡紅色の十二単と相まって、さながら花の女神の化身の如き美しさだ。


 桜と他の三人の姫が、中央に座す帝と皇太后の前に跪いた。



「よくぞ集まった。これより、花の儀を始める」


 皇太后が厳かに口を開く。

 威厳を孕み響く声に、そこにいた大半の者が居住まいを正した。


「此度も四家から、四人の姫がやってきてくれた」


 皇太后の切れ長の瞳が、姫たちを捉える。


「そなたたち四人の姫から、皇后を選ぶことになる。試練に勝ち、その資質を証明してみせよ」


 皇太后が言い終えると、脇に控えていた太政大臣が音もなく立ち上がり、手にした巻物を広げた。皇太后が目で合図を送ると、太政大臣がよく響く朗々たる声でその巻物を読み上げる。


「姫君達には帝より宮が授けられる。今後はその宮の名を名乗るように。同時に姫と共に試練に臨む、近衛武士の名を呼び上げる。武士は姫につけ」


 淀みなく言い終えると、太政大臣が先ほどよりも大きく声を張り上げた。


東一条家ひがしいちじょうけの三の姫――花桜かおうの宮を授ける。近衛武士は、西園寺橘さいおんじたちばな

「はっ」


 ざわめきが広がった。

 それを意に介さず、呼ばれた男――西園寺橘は、精悍だが端正な顔立ちを眉一つ動かさずに顔を上げ、帝と皇太后に礼を取った。聞き間違いではないのだと、ざわめきがより一層大きくなる。


「西園寺家の次男が……」

「何故他家の者が。前代未聞ではないか」

「それより、彼が武士とはこれ如何に」


「静粛に」


 太政大臣の声に、驚きや不満を抱えながらも皆一様に押し黙る。視線は橘と桜の二人を彷徨うが、座礼のまま頭を下げている二人の表情は窺い知れない。

 もしも彼らが桜の表情を垣間見ることができたら、たおやかに微笑むその瞳に抑えきれない激情を見つけることができたかもしれない。彼女の胸には今、怒りと恐怖と衝撃がとぐろを巻いて渦巻いていた。


(どうして、橘が。何で武士に?何で私の?)


 恐怖が混じる衝撃に、桜の指先がどんどん冷えていく。


 できることなら、巻物を読み上げている太政大臣の胸ぐらを掴んでがくがく揺さぶり橘を選んだ人間の名前を吐かせ、そいつを活きの良いヤブ蚊がわんさかいる竹藪にでも放り込んでやりたかった。


 そんな桜の心中は知らず、太政大臣が他の姫君の名前を呼び始めた。


「西園寺家の一の姫――桔梗の宮を授ける。近衛武士は、西乃園茲親にしのぞのこれちか


 通常、姫につく近衛武士は生家に縁のある者が選ばれる。その慣例に従い、西園寺家の姫君もやはり、西園寺家が抱える武家の者だった。


 西園寺家の一の姫――いや、桔梗は、貴重で高価な紫色の十二単を身につけている。彼女は芸事に精通していて、特に歌声が天女のようだと名高かった。そんな彼女も微かに動揺しているのか、指先が震えていた。


南條三家なんじょうさんけの二の姫――白萩の宮を授ける。近衛武士は、南武忠政なんぶただまさ


 白萩は、葡萄色を基調とし、淡い白で描かれた宝珠が洗練された十二単を身につけている。才女と讃えられ、凛とした美女である。


北小路家きたのこうじけ家の一の姫――蝋梅ろうばいの宮を授ける。近衛武士は、輝北雷震きほくらいしん


 蝋梅は、青い瞳を持つ美姫だった。青い瞳の持ち主は何十年かに一度この国に現れる。全員が不思議な力を持ち、蝋梅はその中でも特に珍しいとされる治癒の力を持っていた。



「花の儀は、古来帝の命を救いし女神と女神に忠誠を誓う武士に肖った厳正なる儀式である。近衛武士は三つの試練を乗り越え、姫君は武士の無事と勝利を祈られよ」


 太政大臣が言い終わり、帝に深く礼をするとその時初めて、悠然と微笑んでいた帝が口を開く。

 帝は光り輝くような美しさを持つ、美男子だった。しかし柔和な瞳の奥の底は見えない。


「国を代表する四家から、美しく聡明な姫君が集まってくれた」


 滔々と話すその声は、皇太后と等しい威厳に満ち溢れている。


「しかし我が妃、皇后の座に付くのは一人のみ。誰が私の妃としこの国の母となるのか、この眼でしかと見せて頂こう。近衛武士は、未来の皇后のために力を尽くせ。働きに相応しい褒美と名誉を与える」


 語り終えた帝は爽やかな香を残し、皇太后と共に花の間を出て行った。





 緊張が解け、場が一気にさざめく。

 桜はそのまま動かず、じっと今起きた信じたくない出来事を反芻していた。


「花桜様」


 低い声が桜の名を呼んだ。

 なけなしの矜持をかき集め、かろうじて微笑を作り声の主を見上げるとそこには橘が涼やかな顔で立っていた。相変わらず、憎たらしいほど整った顔をしている。形の良い眉、二重の瞳は意思が強そうで、通った鼻筋が人形のようだった。短い黒髪が端正な顔をさらに精悍に見せた。


「今後あなた様に誠心誠意を尽くし、お仕え致します」


 橘は座礼のままの桜の前に跪き、淀みのない挨拶をした。傍目からは忠誠を誓う好ましき武士であるように見えただろう。

 しかし桜だけは知っている。この男は、桜を蔑み嫌っている。


「――よろしくお願い致します。あなたに相応しい主君・・となるよう、わたくしも精一杯務めます」



 二度と会いたくない男の手を借りるなど、嫌だった。

 それでももう二度と、蔑まれない地位に立つと決めたのだ。

 桜は体に染みていく絶望を感じながら、それでも挑むように橘を見据え、微笑んだ。





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