03.回想
『はるか西の国では、男が女の指に輪をはめて、永遠の愛を誓うんだ。ずっと一緒にいられるように』
きらきらと頬を輝かせて桜の住む離れに訪れた橘が、興奮を隠しきれない面持ちでそう言った。
『輪?』
『そう。金や銀でできているそうなんだけど、あいにく手に入らなかった。だからそれよりもっといい、俺の宝物で桜の指に輪を巻いてあげる』
『本当!?』
桜の瞳も輝いた。大好きでたまらない橘が、桜に永遠の愛を誓ってくれる。
ーーずっと一緒にいられるように。
桜はこの二つ上の幼馴染が大好きだった。桜の世界の全てと言っても過言じゃない。彼が帰る時には涙を堪えるので精一杯だったし、怖くて眠れない夜も彼に見立てた布団をぎゅうと握りしめてやり過ごした。
そんな彼が、自分と一緒にいたいと思ってくれたのだ。
嬉しくて幸せで、どうにかなってしまいそうだった。
『ほら、目を閉じて』
わくわくして目を閉じる。かさ、と乾いた音がして、『むう……難しいな』『あ、ちぎれた……』という不穏な声が聞こえてくる。
……ちぎれるものとは、何だろう。
薄目を開けると、真剣な面持ちで桜の指に蛇の抜け殻を巻いている橘がいた。
『へ、へびーーーっ!!!!』
桜は蛇が嫌いだ。目が嫌だし、動きも嫌だし、細い舌も怖い。
絶叫する桜に驚いた橘が尻餅をつき、蛇の抜け殻は修復不可能になった。
『うっうっうっ……』
『……ごめん……まさか蛇が嫌いな人間がいるとは思わなくて……』
泣く桜を、悲しそうな顔で橘が慰める。
『こんなに綺麗な抜け殻はなかなか見つからないんだけどなあ……』
残念そうに、橘が蛇の抜け殻の残骸を見つめる。桜は泣きながら、大好きな橘でもこれだけは理解し難いと思った。
『いつか桜が喜ぶものをこの指に巻いてあげるから。約束するね』
『蛇以外なら何でもいい』
『それなら任せてほしい!俺の宝物、まだまだあるから』
『………………やっぱり考えておく』
『そっかあ。早く一緒にいるって誓いたいから、一緒に考えよう』
持っていた布に大事に蛇の抜け殻をしまう橘に、喜べなくて申し訳なかったな、と桜は思った。
「ーーーーいや、女の子に蛇はダメでしょ」
久しぶりに昔の夢を見た。
桜はのろのろと起き上がり、頬や目尻の涙を手の甲で拭く。この夢を見ると、いつも桜は泣いているのだ。
「あの年からあんなに完璧に演技ができるなんて、恐ろしい男ね……」
桜の記憶の中で補正されている部分もあるのだろう。それでも橘の顔も声も振る舞いも、桜を見下し突き放した人とは思えなかった。
痛いほどに純粋だった夢の中の自分を思い返す。息が止まるほど、幸福で甘やかな夢だった。
もしも蛇の抜け殻を指に巻いてあの時間が続くなら、笑顔でずっと巻いて見せるのにと思うくらいに。
◇◇
「……どうされました?」
「何が?」
根性でやり終えた宿題を持って図書寮に行くと、橘はもう先に来ていた。近衛武士は鍛錬のほか自身の仕事で忙しいと聞いていたけど、橘は桜がどれだけ早く来ても、いつも先に席に座っている。
しかしいつも無表情の橘が、今日は眉を顰めていた。
「目が、腫れています。泣きましたか?」
「……ああ」
まさかお前の夢を見たから泣いたとは絶対に言えない。いつまでも橘を引きずって泣くような女だと思われたら、恥ずかしくて死んでしまう。
いつもであれば腫れるほどではないのに、今日はあの後何故か声を上げて泣いてしまった。おそらく疲れていたのだろう。泣くだけ泣いたらスッキリした。
橘はもはや過去の男、今は小煩い教師兼従者でしかない。それ以上でも以下でもない。
「別に何ともないわ。そんなことより」
「そんなに目を腫らして、何ともないわけないだろう」
強い口調に思わず目を見開いた。
橘の黒い目に、驚いた顔の桜が映っている。
「……ごめんなさい」
唯一の取り柄である顔を腫らすのは、意識に欠けていると言いたいのかもしれない。冷えていく指先をぎゅっと握ると、橘が何かに堪えるようにため息を吐いた。
「……いえ、申し訳ありませんでした。誰かに何か、酷いことを言われましたか?」
「?いいえ、誰にも。もう顔を腫らしたりしないから、勉強しましょう。時間がないわ」
桜の言葉に、橘が眉間に深い深い皺を寄せる。まだ小言が言いたいのかとげんなりして橘を見ると、橘が「心配しているのです」と言った。
「……わたしを?あなたが?」
聞き間違いだろうかと怪訝な顔をすると、橘が「当然でしょう」と片眉を上げた。
「あなたはもう俺の主君ですから。何か悲しいことがあったら排除しますし、そもそも悲しいことが起きないようにするのが俺の務めです」
「近衛武士は、花の儀の試練だけ頑張ればいいものじゃないの?他の武士は他の姫君に、忠誠を誓ってないわよね?」
「……俺は武士になりたてで日が浅く、何事にも真剣でありたいのです」
不貞腐れたような橘が面白くて、桜は一瞬ふふっと笑った。
その桜を見て、橘が虚をつかれたような顔をする。
「恥ずかしいから言いたくなかったけど、夢を見たの」
「夢?」
「そう、夢。昔叶えたかった夢。ばかばかしいでしょう?疲れてたみたい。でも泣いたらスッキリしたから、もう大丈夫」
桜の言葉に、橘は一瞬口ごもり、掠れた声で呟いた。
「……あなたの夢は、叶えますから」
「ありがとう」
でも絶対に叶わない。
心の中でそう呟くと、胸の奥が微かに疼く。
それでも誰かに心配されるのは、嬉しいことだ。心配させて申し訳ないけれど。
「心配してくれてありがとう」
橘に笑顔を向けると、彼は何かに耐えるような、切ないような、そんな顔で微笑んだ。
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