ムキムキたまごと俺

和辻義一

ムキムキたまごと俺

 その日は職場の忘年会だった。


 俺が所属する部署には、課長を筆頭に三十人ほどの社員がいて、それぞれがグラスを片手に、いくつかのグループに分かれて賑やかに酒の席を楽しんでいた。


 かく言う俺も、適量の酒を楽しんでほろ酔い気分になっていた。忘年会がスタートしたのが午後六時半、腕時計の針はそろそろ午後八時十五分頃を指そうとしている。


 実は今回の忘年会、スタート時点では男性陣のノリが良く、逆に女性陣の方は若干しらけたムードになっていた。というのも、今回の忘年会の幹事が悪ノリして、きわどいドレスを身にまとった女性がテレビCMに出ている酒造メーカーの関連会社が経営する居酒屋を選んだからだ。


 当然、と言って良いのか、その居酒屋ではテレビCMと同じく、女性従業員達は皆きわどいドレスを身にまとっていた。タイトなワンピースのドレスの、上からは胸が、下からはお尻がはみ出しそうな衣装だ。


 そんなお店の雰囲気に、最初の乾杯が始まるまでの間は、女性社員達は口々に「セクハラだ」などと言っていたのだが、アルコールが入ってしまえばそんなことを気にする人間は、ごく一部の酒が飲めない人達を除いてほとんどいなくなった。全く、酒の力というものは恐ろしい。


「なあ市原、この『ムキムキたまご』ってのを頼んでみろよ」


 ついさっきまで別のグループで騒いでいた同じ職場の先輩が、ビールの入ったグラスを片手に俺達が飲んでいたグループへとやってくるなり、真っ赤になった顔で笑いながらバシバシと俺の肩を叩いた。


 この先輩、日頃は仕事でも頼りになって、人当たりも良く優しい人なのだが――酒が入ると人柄が豹変するのが、いわゆる玉にきずというやつだ。


「何スか、その『ムキムキたまご』って?」


 少し離れたところに置いてあったメニュー表を見ると、確かにそこには「ムキムキたまご 440円」と書かれている。


 ムキムキってのは、あれか。ボディビルダーとか、マッチョマンとか、あっち方面の話なのか。


「ばっか、おめぇ、ムキムキたまごって言ったら、よ」


 先輩はニヤリと笑うと、俺の耳元に口を寄せてささやくように言った。


「ウェイトレスのお姉さんが、お前の指定した好きな方法でゆで卵を割って、食べさせてくれるんだよ」


 そう言うなり、先輩は高々と右手を上げて少し離れたところにいたウェイトレスのお姉さんを呼び、酒のせいで少ししゃがれた声で「すみませーん、ムキムキたまごひとつー」と叫んだ。


 程なくして、きわどいドレスに身を包んだナイスバディな美人のお姉さんが、白い卵――おそらくはあれが、ムキムキたまごなのだろう――を一つ、小皿に乗せて運んできた。


 あれ一つが440円だと考えると、随分と値段が高い気がするんだが――でも、それを持ってきてくれたお姉さんは、明らかにムチムチだ。


「ムキムキたまご、入りまーす。お客様、この卵をどこで割って欲しいですかぁ?」


 お姉さんが俺の目を覗き込むようにしながら、にっこりと笑って言った。


 一方の俺はというと、その――どうしても、お姉さんの豊かな胸の谷間から目が離せずにいた。


 実は俺は、いわゆるおっぱい星人という奴だった。女性の胸は、豊かであればあるほど素晴らしい。豊かな女性の胸は、世の男達にとっての癒しであり、帰るべき場所だとすら思っている。しょせんお尻など、おっぱいのまがいものに過ぎない。


 俺はちらりと先輩の方を見た。先輩は意味ありげな笑みを浮かべて、うんうんと頷いている。俺はお姉さんに尋ねずにはいられなかった。


「あの、その卵って……どこででも割ってくれるんですか?」


「はい、どこででも割りますよ」


「本当に、?」


「もちろん。私がお客様のご要望通りに割って、お客様に食べさせてあげます」


 おそらくはお姉さんも、このメニューのを分かった上で、そう言っているようだ。


 お姉さんは知ってか知らずか、自分の豊かな胸を軽く揺さぶってみせた。おうっ、ぷるるん、ぷるるん。


 これはもう、あれだ。絶対にあそこで割ってもらうしかないだろう――世の大半の男達の夢、全て遠き幻想郷、あの魅惑の谷間でっ!


 何だったらもう、卵と一緒に俺の顔も挟んでもらいたいぐらいだ。俺は緊張に震える声を何とか振り絞り、己の勇気と希望を言葉に変えようとした。


「すっ、すみませんっ。それじゃあその卵を」


「こいつのデコで、かち割ってやってください」


 突然背後から声がして、俺は思わずびくり、と身を震わせた。声の主は、二つ年上の女性の先輩――そして、職場の人達は誰も知らない(はずだ)が、実は俺の彼女だった。


 やばい。これはマジでやばい。が他の人達にバレないよう、今日はそれぞれ離れたグループで飲もうって約束していたはずなのに、何でここにいるんだ?


「ご注文、承りましたー」


 お姉さんはにこやかに笑うと、小皿の上に乗っていたゆで卵を右手に持ち、呆気にとられていた俺の額を目掛けて、結構な力でゆで卵をぶつけてきた。


 俺のほぼ目の前でぱきっ、という派手な音がして、ゆで卵は割れ、俺の額がヒリヒリと痛んだ。突然の出来事で驚く俺の目の前で、お姉さんは素早く器用にゆで卵の殻を剥き、俺の口元へと運ぶ。


「はい、あーん」


 お姉さんは笑顔でそう言ったが、俺は背後に立つ彼女の影が怖くて、正直それどころではなかった。


 俺の彼女はバリバリのキャリアウーマンで、会社の中では陰で「ドSの女王様」などと呼ばれているが、俺と二人きりでいる時には優しくしてくれる、良い彼女だった。ただ一つ、俺にとって残念なのは――だけだった。


「あ、いいですいいです。あとは私がやりますから」


 彼女はそう言ってお姉さんから殻を剥いたゆで卵を受け取ると、満面の笑みを浮かべながら俺に言った。


「ほら、市原君、大きく口を開けなさい……これは命令よ」


 ――駄目だ。鬼だ、鬼が俺の目の前にいるっ!


 観念した俺が目をぐっとつぶって口を開けると、彼女は俺への当てつけのように、お姉さんの声真似をしてみせた。


「はい、あーん」


 ずぼっ、という効果音がぴったりとくるぐらいの勢いで、彼女は俺の口の中にゆで卵を突っ込んだ。思わず俺はむせ返りそうになったが、そんな俺の様子を見ていた周りの人達は、皆ゲラゲラと笑っていた。


 中でも一番の大声で笑っていたのは、最初にムキムキたまごを注文した先輩だったが――先輩、この後の彼女へのフォローも含めて、一体どうしてくれるんスか、これ?

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