断罪の天使

甲池 幸

第1話

 首にサイコロの入れ墨をした若い男が死んだらしい、と聞いてジェイコブは裏道を現場に向かって走っていた。すれ違いざま、天使が頭から股までぱっくり縦に裂いてしまったらしい、と誰かがひそひそと呟く。ジェイコブはぐ、と奥歯を噛んだ。

 天使は、あらゆる悪行を監視し、二度の悪行を犯した人間を無差別に、見つけた順に殺していく、世界を正しく保つための殺人兵器だった。生み出したのは悪を憎んだ科学者で、神様などとは程遠い人だったのだけれど、その無差別な断罪を見た誰かが、きっと神様の使いだろうと、聖書に出てくる天の使いを模して、天使と名付けた。

 ジェイコブは聖書など読んだことがないので、由来は知らない。そもそも、天使が天の使いと書くことすら、彼は知らなかった。読み書きを学ぶだけの余裕は彼には無かったし、本来それを与えてくれるはずの両親は、彼を産んですぐに食べ物を盗んだ罪で天使に引き裂かれて死んだ。

 ジェイコブが知っているのは、天使は殺人兵器だという事と、世界はとても正しく回っていることだけだ。

「ルーイー!」

 叫びながら、ジェイコブは兄と慕う男の傍に駆け寄る。首元のサイコロの入れ墨は十五の時に入れたのだと、自慢げに話していた。めちゃくちゃ痛ぇから、お前には多分無理だな、と頭を撫でながら笑われた。その、子供扱いが嫌いで、でも大事にされているのだと分かっていたからルーイーの事は大好きだった。大好きだったのだ。

「ルーイー」

 無残に半分に裂かれた死体を抱きしめる。傍にはぐるりと彼を囲む野次馬と、真っ赤な血にまみれた天使が居た。人そっくりに作られた天使はルーイーを断罪した剣を持ったまま、無感情にジェイコブを見下ろす。その、綺麗な翡翠の瞳が憎かった。人を殺しておいて、まるで間違っているところなんてひとつもないと、綺麗な瞳を歪めることもしない、その傲慢さが憎かった。

「おまえなんか……」

 翡翠の瞳を睨みつける。後半は言葉に出来なかった。誰かを詰る言葉も立派な悪で、悪人の死体を抱きかかえるのも立派な悪だ。ジェイコブが今、彼女を詰れば、彼女はルーイーを殺したその正義の剣でジェイコブの事も引き裂くだろう。それはダメだった。それだけはダメだった。

 だって、今死んだら、一体誰が、ジェイコブを生かすために食べ物を一人で盗み続けたルーイーの優しさに報いてくれる? 一体誰が、ルーイーのことを、遠い未来まで覚えていてくれる?

 生かされたから、生きろと望まれたから、ジェイコブは死ぬわけにはいかなかった。それだけは、絶対にダメだった。

「おまえなんか」

 吐き出したいけど、吐けない言葉が腹の奥で暴れまわってジェイコブを刺した。苦しくて、痛くて、どうしようもなく涙が出た。体中が内側から食い破られて穴だらけになっていくようだった。

「おまえ、なんか」

 ルーイーの死体を抱きしめて、血が出るほど強く、ジェイコブは唇を噛む。天使はとっくにジェイコブに対する興味をなくして、自慢の正義の剣を丁寧に拭っている。その、白いハンカチすらも憎かった。愛しい人の血なのに、白いハンカチに付くと汚れに見えるから憎かった。憎いのに、拳ひとつぶつけられない世界が憎かった。

 正しく、綺麗に整頓された世界なんて、ほんの少しも正しくない。

「私、お墓掘る」

 小さな真っ赤な手がジェイコブの肩を叩いた。天使が白いまつ毛を気だるげに動かして、翡翠の瞳で少女を見やる。悪人の墓を掘るのは立派な悪行だ。天使はいつだって、悪人しか見ない。

「あなたはもう、その人を抱き上げた時にひとつめでしょ。だから、私が掘る」

 黒い髪を綺麗にひとつに纏めて、金色の髪留めをした女の子だった。綺麗な刺繍が施された白いエプロンも、赤いワンピースも、一目で上等なものだと分かる。ジェイコブとは違う、綺麗な家と服と食べ物を与えられている子供。ジェイコブの同類ではなくて、同類ではないからジェイコブには冷たい人たちの仲間。天使が見たのなら彼女は間違いなく悪人で。でも、ジェイコブは彼女こそが神様なら良いのにと思った。学のないジェイコブすら知っている世界を創った神様が彼女なら、世界はきっともっと汚くて、汚れを嫌わない、優しさ場所だろうと思った。そういう世界であったら良かったのにと思った。

「人が死んだら、お墓を作らなきゃ、ハロウィンに帰って来られないんでしょ。だから、私が掘る」

 ジェイコブは死人がどこに行くのかも、ハロウィンに彼らが帰って来ていることも知らなかったけれど、目の前の女の子が怒っているらしいことだけは分かった。両方の手をぎゅっと握りしめて、眉間に強く皺を寄せて、彼女は怒っている。この、綺麗に整頓された世界に、確かに彼女は怒っていた。

 その怒りこそが、ジェイコブにとっては明確な救いだった。

 カチャン、と音を立てて天使が剣を仕舞った。返り血に染まった真っ赤な羽を広げて、天使は空へと飛びあがる。飛び立つ瞬間もジェイコブを一瞥もしない様が、やっぱり、どうしても憎かった。

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