第91話「凜母」
「ねぇ本当に行くの? 別に今日じゃなくてもいいんじゃない? それによくよく考えたのだけれど、まだお付き合いしている段階で両親にあいさつっておかしくない?」
「一番初めに親にあいさつしたいって言ったのは凜の方だろ。それに俺だけあいさつしていないのは何か不公平感があって嫌だし」
「それは......お義父さんとは前に一度会ってるし、嘘じゃなくて本当のことを伝えたかったからであって......」
俺と凜がぎゃいぎゃいと言っている場所は凜の家の目の前であった。俺としては今すぐにでも訪問して挨拶をしたいところなのだが、直前のところで凜が怖気づいてしまったらしい。
しかしいつまでも家の前で話をしていても埒が明かないし、何より近隣の人にも迷惑が掛かってしまう。もちろん吉川家にも。
俺が凜の言葉を話し半分に聞き流して歩き出そうとすると、凜が渾身の力を振り絞って俺の身体を止めた。力というよりもそれは身体全身を使ってといった方がより正確だろう。
「わかった、わかったわ。もう止めないから......私が先に行く」
「そんなに身構えなくても大丈夫だと思うんだけどなぁ」
「そんなこといって泣いて帰る羽目になっても知らないからね?」
え、俺はいったいどのような挨拶をすれば泣いて帰る羽目になるのだろうか。そのような未来が想像できるはずもなく、俺は凜の脅しを鼻で笑い飛ばした。凜は盛大な溜息を吐き、玄関の扉を開けた。
「あらようやく入ってくる気になったのね。まったく、待たせすぎよ。ささ、入って入って」
出迎えてくれたのは凜と見間違いそうなぐらいにはよく似た女性だった。綺麗な黒髪とすべてを見透かすような輝く瞳は凜の母だと聞いてすぐに納得してしまう程度にはそっくりだった。
「ママがずっとここで待ってるから何となく入りづらかったの! もう少し普通にしてよ」
「普通? 今まで凜の口からしか聞いたことのなかった空くんが来るっていうのだから嬉しくならない方がおかしいわよ。あら? もしかしてあなたが星野空くんかしら」
「あ、はい! 星野空と申します。娘さんとは仲良く......」
「そんな畏まらなくてもいいわ。だってこれから私の息子になるのだからもっと自然体に接してね。さぁ上がって! お茶を入れるわ」
場の雰囲気をすべて引き付けて離さなかった。凜母恐るべし。
凜は自分の母親に対しては年相応の態度を見せるようだ。いつもならどこか達観しているような大人びているようなイメージが強いのだが、母にからかわれたり、少し思春期の残りがあるような感じはまさに高校生女子のそのもののような気がした。
俺は言葉に動かされるようにそのまま靴を脱ぎ、家に上がらせてもらう。
彼女の家はもちろんのこと、友達の家にすら遊びに行くという行為をしたことのなかった俺は自分の家とは全く違う雰囲気に圧倒されそうになった。
微妙に居心地が悪いような気もするが、隣に凜がずっと寄り添ってくれるので心強く居心地もだんだんといいものになっていく。
「凜からいろいろときいてるわ」
上機嫌にお茶を入れながら俺に話しかけてくれる凜母は今にも笑い出してしまいそうなほど口角が上がってしまっている。
「......ちなみにどのようなことを?」
「知りたい?」
「えぇとっても」
「す、すとぉおおおっぷ!! ママはこれ以上喋っちゃダメ! それに空くんも乗っからないで!!」
凜が焦ったように入り込んでくる。
俺は素直に知りたかったので少し残念な気持ちになりつつ凜母の顔色を窺うと先ほどよりも笑みがあふれていた。
そこで俺はなるほど、と納得する。
凜母は自分の娘をからかいたくて仕方がないらしい。俺が果たして何人目の彼氏になるのかは分からないし考えたくもないが、凜からこれまで聞いていた惚気話と同じなのかどうなのかなどをいろいろと確かめようとも思っているのではないだろうか。
そこまで考えて首を横に振る。
そこまでの深読みは不必要だ。
この場を全員が楽しんでいる。それを確信できただけで満足しなければならない。
「ねぇ、そんなことよりパパは?」
「あなたのパパは今は少し出かけているわ。もう少しすれば帰ってくると思うけど、それは気にしないでおきましょう?」
「私はパパに認めてもらわないといけないのに......」
「えぇそれは私もそうよ。でもね、凜。私も凜の親の一人なのだし、私としては応援する立場だから味方にしておくと得だと思うのだけれど?」
「ママが助けてくれるの?」
「いざとなれば縛り上げてでも認めさせるから安心して。その間に空くんと仲良くなりたいわね」
「変なこと言わないならいいよ」
「変なこと? そんなこと言わないわ、だって私は大人なのだから。せいぜい凜から聞いたことを空くんに教えてあげるだけよ」
「そ れ を や め て って い って る の !!」
凜と凜母はとても仲がいい。それはそうだ、日々一緒に暮らしているのだから。しかしここまで蚊帳の外だとアウェーの地ということもあって孤独感が強く募ってくる。
俺が表情を暗くしていることが読み取られてしまったのか、凜母が手招きしてこちらへ来いと言ってくれた。そしてそれと同時に凜が椅子を引いて俺を半ば強引に座らせる。
面接とまで堅苦しいものではないが根掘り葉掘り聞かれたので大トリの凜父が来るまでに結構体力を消費してしまった。
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