第86話「ネグリジェ」

 今までは散々髪を乾かしていたはずなのに付き合うことになって初めてのお泊りでは断られてしまうという俺にとってよくわからない現象が目下で起こった。だがとやかく言っても仕方ないと、アルバムを片しながら時間をつぶしていると、結構時間がたっていた。

 途中で懐かしさに心を奪われてしまったからかもしれない。母さんの記憶はだんだんと薄らいでいくのだが、写真を見ると薄れていったものがまた新しい情報として頭の中に入ってくる。


「布団でも敷いておくか」


 てきぱきと寝る準備をしていく。いつもならば俺と凜の布団はもう少し離した位置におくのだが、まぁ今日からは隣に密着させてもいいのではないだろうか。大胆にアプローチするのは恥ずかしさで死んでしまうのでこういうさりげない所から攻めていきたい。


「あっ、布団敷いてくれたんだね、ありがと」

「どういたしまして。......本当に自分で髪を乾かしたんだな」

「何でそんな拗ねた表情してるのよ」

「何でってそりゃ、今まで俺がしてたわけで......。あの時間は結構俺の中で好きな時だったのに」


 ほかほかと凜から湯気が上っていて、同じ洗剤を使っているはずなのにとてもいい匂いが漂ってくる。俺の自我がどこかへ飛んでいきそうになってしまうのだが、どうにか抑える。だが代わりに気持ちの方の抑えが効かなかったようだ。


「ごめんごめん、でも今日はこの姿を見てもらいたくて」

「な......っ!」


 一歩引いて、凜はくるりと一回点をする。その様子は綺麗に羽をなびかせる蝶のようであった。俺はその仕草一つに見とれそうになるが、そこよりも大切な言わなければならないところを発見した。

 それは、凜の着ている服についてだった。


 普段の凜なら普通のパジャマを着ているはずなのに今日は俺の夢の中なのか、ネグリジェ姿で俺の前に立っている。


「かわいい? 今日びっくりさせようと思って今まで黙ってたんだ~」


 ルンルンと嬉しそうに跳ねながら訊ねてくる凜に俺は返答する余裕さえなかった。薄い生地が凜のシルエットを何となく映し出し、容易に想像できてしまう。そんなことを考えてはだめだ、と己を律しようとしても否応なくその情報は俺の頭の中になだれ込んでくる。

 今すぐにでも抱きしめたい。

 そんな感情が俺の中を走った。


「......驚いたよ。とてもよく似合ってると思う」

「やった! あおちゃんと一生懸命悩んだ甲斐があった。......あ、いや」


 恐らくは安堵のあまりであろう。

 凜は本当は言いたくなかったことを口を滑らせて俺に聞かせてしまったらしい。


 だが俺としてはそうして悩んでくれていたというだけでもうれしいと思うし、かわいいと叫びたくなる。

 そのやらかしたぁ、と顔を赤くさせるのも見ていて微笑ましい。


「そ、空くんはこういうの好きかなって、それで......あおちゃんに相談して、もう付き合ってるならネグリジェで攻めたら? とか言われて」

「まぁ、男なら好きな子がどんな格好をしていても好きだし、ネグリジェなんて着たら襲い掛かられても文句は言っちゃだめだと思う」

「......私今から襲われる?」


 なんだその返しにくい質問は。

 どうこたえても逃げ場がないではないか。

 襲う、を選択した場合、俺はその瞬間から節操のない変態と認識されてしまうのではないか。最悪の場合、それだけが目当てだったの? と誤解されて破局、なんてことになりかねない。

 一方で襲わない、と選択した場合。凜がネグリジェまで着て俺を篭絡させようとしていると考えるのならばそこでその選択をするのは禁忌と言わざるを得ない。どっちにしても身が縮む思いをするしかないのかと俺が悩んでいると。


「うそ。空くんがそういうことをしない人だってことは知ってるから。今日は空くんの驚いた顔と照れた顔と百面相して悩んでいる顔が見れたから満足かな」

「り、凜」

「ね、今日はもう寝よっか。電気消して」


 俺は声をかけようとするも、それを覆いかぶせるようにして電気を消してくれという凜。その言葉に従って俺は居間の電気を消した。

 あっという間に暗闇の空間に変貌するが、何度か瞬きを繰り返していると、暗闇になれた瞳がだんだんと物の輪郭を捉えていく。


 凜に気を使わせてしまったな、と罪悪感が募る。どちらに転ぶにしろ、結末はそう変わらないのであれば瞬時に決めて素早く言い切るべきだった。

 いまさら言ってももう遅いのだが。


「空くん」

「ん?」

「私たち、付き合ってるんだね」

「そうだな」


 布団に潜り込んで数分、冷たい感覚からじんわりと温まってきたところで凜が話しかけてきた。


「私はちゃんと空くんの彼女としてできてる?」

「そんなことを考える必要はない。凜は凜のままでいればいい」

「私を私のままで全部肯定してくれる空くんが好き。好きだよ」

「......俺も」


 俺は恥ずかしくなって凜に背を向けるようにして寝返りを打つ。


「ねぇ空くんは私のこと好き?」

「......あぁ」


 俺がそう答えると背中にとすんと軽い衝撃が伝わる。凜が俺の布団に入って俺の背中にぴたりと寄り添ったらしい。


「自分の布団から逃げ出してきてもいいのか?」

「ん~、私が捕まってあげるのは空くんだけだからいいの」

「そうなのねじゃあ」

「うん、私を捕まえて?」


 俺は再度寝返りを打ち、凜と面を向って対峙する。そして何も言わずに凜の背中に手を添えてぐいっと近づけた。


「おやすみ、凜」

「おやすみなさい」

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