第43話「移動もまた」

 俺は今、驚いたことにあの吉川凜と仲良く手を繋いで電車に乗っている。少し前からすると考えられないことだ。だがこれは俺の気持ちの悪い夢ではない。現実だ。まぎれもない現実で舌を軽くかんでみると当たり前のように痛いし、人の温もりがリアルに伝わってくる。

 これまで一人がほとんどだった俺にそのような体験はなかったしそれを忠実に再現してくれる機能は備わっていない。


 ということで、俺は初めて女の子と手を繋いでいるらしい。

 それだけ聞くと初々しくて微笑ましいと思われてしまいそうだが、俺の今の頭の中には自分の手汗のことしかなかった。

 どうしても緊張してしまって止めようにもドバドバ出てきている。これはまずい。すこぶるまずい。


 さりげなく解こうとしてみるが、凜はそれをすぐに察知して逃すまいと俺の手を離そうとはしなかった。凜と手を繋ぐのが恥ずかしくて終わらせようとしているのではない。ただとりあえず手を拭きたいだけなのだがその意図は彼女に伝わる気配がなかった。


「......カップルってみんなこうなのかな?」

「こうって?」

「あんまり言いたくはないんだけどね......」


 ごくり、と生唾を飲み込む。これはあれか、言われてしまうのか? 俺がどうにかしようとしながらもできなかったせいで凜の口から「空くん、手汗すごいね」と言わせてしまうのか。


 俺が身構えて瞬きをできないでいると、


「空くんと手を繋いだ時からどきどきしてて......私、手汗すごいことになってる」


 繋いでいない方の手で顔を覆いながら本人にとっては結構なカミングアウトをした。逆に俺は拍子抜けで肩透かしを食らった気分になった。

 そうか、俺だけではなかったらしい。それもそうか、俺も凜も人間なんだから、手汗ぐらい普通にでてくるもんな。


 流石に「手汗なんて出てないよ」は見え見えの嘘なので、俺も正直に心の内を伝えることにした。


「......実は俺もさっきから緊張して手汗が」

「緊張? もしかして遊園地に絶叫マシンしかないの?」


 違う、そうじゃない。


「いや、そういうわけじゃなくて......。凜と手を繋いでいるなんて少し前だったら考えられないし、今も夢じゃないかって思う。けど実際は手を繋いでるし、隣に座ってるし......。だからその」

「んふふ、それは私もだよ」


 俺がしどろもどろになりながらも一生懸命に何かを伝えようとしていたのは伝わったのか、凜は微笑みながら相槌を打った。

 だが「私も」だと凜が俺と一緒にいることに緊張しているという意味になるのだが、その解釈は俺の行き過ぎだろうか。ただ俺の相槌のために言った言葉がたまたまそれだったのだろうか。


「たまに空くんが勘違いしてそうだから言っとくとね、私はまだ誰とも本当のお付き合いをしたことはないしデートもしたことないよ。前原くんはあおちゃんのものだし、というかそもそも私は友達としか見れなかったし......。安部くんは彼氏というよりはSPみたいな感じだったから。空くんが初めてだよ」

「そ、そっか......。......ん、ちょっと待って、前原と高市はもう付き合ってるのか?」

「えー、今結構大事なことをカミングアウトしたような気がするんですけどぉ。反応することそこぉ?」


 恥ずかしくて他のところは反応したくなかったんです。

 俺が初めて、と言われるだけで少しだけだが心が高鳴ったのはなぜだろう。俺は別にもともと付き合うとかそういうことは考えないようにしているし、もしも付き合うような女性が現れたとしても、俺が何番目かは特段気にしない性格だと思っていた。


 だが、自分を一番よくわかっていないのは自分自身なのかもしれない。


 拗ねたように唇を尖らせる凜にごめん、と苦笑しながら謝罪する。彼女は軽く体当たりをしてきたが本当に怒っているわけではなさそうだった。


「まぁ、前に遊びに行ったときにいい雰囲気になって終わったから。ちょっと気になって」

「え、じゃあそれから何も聞いてなかったんだ? その日に二人は付き合い始めたのに」

「......え?」

「そうよ? あのあおちゃんプロデュースの服を着て前原くんは告白したの。もちろんお返事は答えるまでもなくイエスだったけどね」

「そりゃ高市が前原のことを好きで好きでたまらないことは知ってたけど」

「それ、あおちゃんの前で言ったら殺されるからね?」


 肝に銘じておきます。

 あの人にも春が訪れたようで何よりだ。面倒くさい姑の感じが初対面だったような気がするがこうして恋が実ったという知らせを聞くと素直におめでとうと言いたくなる。

 しかし凜はもうその気持ちは超えてしまっているようだった。まぁその事実を知ったのはもうずいぶんと前のようだから何の感慨もないのかもしれない。


「あ~あ、先越されちゃったな......」

「まぁ高市は上手く立ち回っていたからな。自分に好意を寄せられないように凜が好きだって噂を広げていたり、性格がきついっていう噂だけを一人歩きさせたり」

「あれ自分でやってたの? 心無い人が広めているのだとばかり......」

「でも凜はその美貌を使えば大抵の男はころりだろ? すぐに追いつけるんじゃないか?」


 その時には俺は晴れてお役御免というわけだが。


「さぁどうだろ、その人は結構手ごわいから」


 その凜の一言に俺は応援したいという気持ちとともに針を心に刺されたような気持になった。

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