第31話「夢」

 俺がゆっくりと目を開けるとそこは見慣れた空間のはずなのにどこか懐かしさを感じる場所だった。俺が人生の中で一番緊張したといっても過言ではなかった日でもある。

 高校受験の時の教室だ。


 その教室は一年生で使ったのでまだ懐かしいとしみじみいうには記憶が新しすぎるような気もするが、あの雰囲気だけは二度と忘れることはないだろう。

 当時の俺はまさに崖の上に立っているような面持ちだった。この問題が解けなければ死ぬ、ぐらいに思っていたものだ。高校のレベル的にも予断は許さないような状況だったので尚更だった。


「......明晰夢ってやつかな?」


 これが夢であることはすぐに分かった。

 せっかくの明晰夢なのだから楽しもうとすぐに切り替えられたのは俺がまだ疲れていたからかもしれない。


 一生忘れない、とは言ったものの詳細まで覚えているか、と訊ねられたら自信がない。大まかなことはおぼえているが誰と話したか、とか何回トイレに行ったかなどは記憶の外である。


「国語どうだった? 俺マジやべー、半分ないかもしれん」

「? 全部答え書いてあったのに」

「頭のいい奴は大体そういうけど、それを見つけられたら苦労はしねーんだよ」


 自分の声と懐かしい声が聞こえてきた。どうやら俺は俺でないらしい。他の誰かなのか、認知されていないのかはわからない。

 俺とその友達が話している。この二人は結局、大滑りして別の高校に行くことになるのだが当時はそんなこと知らず、呑気に話していた。


 俺は当日、自分でも驚くほど調子が良かった。すべてがつながって見えるような気分だったのだ。だから英語以外の教科は点数が良かった。


「これがあと三つもあるのかよ。俺もう帰りたーい」

「そんなこと言ったってやらないことには受かるものも受からないぞ。先生からもお墨付きもらってるんだから普通にやれば受かるだろ」

「星野は切羽詰まりすぎ! もう少し肩の力抜こうぜ、じゃないと身が持たないぞ~」


 今でこそ言えるが、ここでその助言に従わなくてよかった。

 彼らは決して友達ではない。だが同じ中学の生徒だ。高校受験では見知らぬ顔がいる中で話したことはなくても知った顔がいるだけで心強いものだ。たったそれだけで俺は彼らと話していた。ちなみに彼ら同士は友達だった気がする。


「おい、どこ行くんだよ」


 俺の問いかけに二人は「トイレ~」と声を合わせて出て行った。

 一緒に行こうと呼んでくれないのか、と俺は内心で落ち込みながらも持ってきた教科書を広げて最後の確認を行っていた。


「あれっ......ない?! どうしよ......」


 教科書を開けていざ、と思ったときに隣の席の女子が何やら慌てた様子で筆箱を逆さまにして中身をぶちまけていた。

 もう少しで始まりそうなので他人のことに首を突っ込んでいる場合ではない。ひとつでも抜けていたところを頭に詰め込まなければ。

 そう思っていても気になるものはしょうがない。


「あの......どうしましたか?」


 俺は恐る恐る訊ねた。

 すると、その困っていた人は顔を真っ赤にさせながらマシンガンのように言葉を紡いだ。


「いえ、あの私、さっきまでちゃんと机の上にシャーペンと消しゴムとか置いていたのに、なくなってて......。もう少しでテスト始まっちゃうのにこのままじゃ受験する前に落ちちゃうけど、予備持ってくるの忘れちゃってて」


 黒髪をおさげにして丸眼鏡をかけていた見るからに大人しそうな女の子だった。しかも花粉症なのかマスクをしているため表情が読み取りづらい。だがそれでもわかるぐらいに顔を真っ赤にさせていたから表情に出やすい人なのかもしれない。

 俺はこんなことあっただろうか、と思いながら続きを見る。


 今にも泣きそうな女の子に当時の俺は困ったように頭を掻き、


「あ~、ならこれ使ってよ。予備で持ってきてたけどたぶん使わないから」

「......いいの?」

「だって、シャーペンとか消しゴムとかないと受験できないだろ?」

「それはそうだけど......。予備としてあなたが使うんじゃないの?」

「予備はこういうときのためにあるんだよ、たぶん。それにあなたって言われるのなんかこしょばゆいから名前で呼んでくれ。俺の名前は星野空」

「星野くん......。ありがとう、これ、借りるね」

「うん、受験頑張って合格しよう。そして高校でまた逢えたらいいな」


 ......これって俺か? 俺に似た誰かじゃないか?

 歯に浮くようなセリフを決め顔でいった俺は何事もなかったかのように自席に戻って、焦るように教科書をめくった。


 これがもし、本当のことだったとするならばこの子は合格したのだろうか。別に合格していてもしていなくても元気でいてくれればそれでいいのだが。


 でも、もし。超能力的な何かで俺が実際に会ったときに彼女だと認識できるような能力があったならば、高校内で見つけたいと思った。


「では、そろそろ時間ですので試験を始められるように準備をして......」


 そんな監督者の説明を聞きながら俺はだんだんと耳が遠くなっていくのを感じていた。それはきっと明晰夢がそろそろ終わることを告げているのだろう。

 せめて、テスト用紙に彼女が名前を書くところまでは見たい!


「テストを開始してください」


 一斉に紙がめくられる音が響き、彼女が名前を書こうとペンを走らせる。その名前は最初に「吉」と書こうとしているような気がした。




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