第12話「エプロン」


 どすっ、と鈍い音と衝撃が身体に伝わって俺は目が覚めた。酷い夢を見ていたような気がするがうまく思い出せない。変な夢だったなぁ。凛が出てきたような気がする。きっと昨日、色々あったからだろうな。

 俺は目覚めた体勢そのままで夢を思い出そうとしたが無理だった。ふとした瞬間に思い出すことを願いつつ、俺は背中をさすりながら起き上がった。

 無意識だったのだが、どうやら強打してしまったようで少し痛む。ただでさえ身体がボロボロなのに自分でも痛めつけていてはいつ体力が完全に無くなってもおかしくない。


 一つ、大きな伸びをすると台所の方から何やら美味しそうな匂いがしてきた。


 何よりもまず顔を洗うのを日課としている俺はついつい釣られそうになりながら洗面台へと向かいじゃばじゃばと冷水を顔にぶっかける。一気に脳が起きて引き締まっていくのを感じる。


「おはよー」

「あ、おはよう。勝手に台所借りちゃってるよ。空くんの分もあるから食べて食べて」

「起こしてくれたら作ったのに」

「ありがと。でも私がやりたかったから」


 俺がいつも使っているエプロンをつけていた凛はテキパキと料理をこなしていた。もしかすると俺よりも数段上手いかもしれない。俺もほとんど一人暮らしの状況にいるのでそれなりに料理などの家事全般はできるが凛ほど効率的にはできないだろう。同時並行が苦手だからしょうがない、ということにしておこう。


 ただ申し訳ないな、と思ったのは俺の分しかエプロンがなかったことだろう。こんな状況を想定はできないだろうがせめて予備としてもう一つぐらい買っておくべきだった、と少し後悔した。目前に置かれたモーニングコーヒーをずずず、と啜りながら凛の背中をみる。

 こうしてみると同棲している本当の彼女のような、もっと言えば新妻感がひしひしと感じられて朝から何だか気恥ずかしくなった。


 しかし、本人はいたって真面目に俺のために朝食を作ってくれているだけなので俺の邪な気持ちはぐっと心の奥底にしまっておく。


「食パンと目玉焼きとウインナーとトマトとレタスぐらいでいい? それとも高校生男子ってもう少し何か付け加えないと持たない?」


 皿に盛り付けたそれらを置きながら凛が問うてくる。俺は見た目からも分かるとおり、そんなに食べる方ではなく、少食なのでこれぐらいでちょうど良い。


「いや、これぐらいでいいよ。ありがとう」

「本当? 空くんは見た目通りに少食なんだね」


 痩せの大食いと呼ばれる規格外の人物がいるが、残念ながら俺はその部類には入っていない。ただこの少食のおかげで食費は他の高校生男子よりも浮いているし時間もそこまで必要としないので他のことに時間を回すことができるというメリットもある。


 向かい側に凛が座り、対面して朝食を食べる。


「いただきます」


 凛が気にした様子もなく平然と食べ始めたので俺も後を追うようにいただきますを言ってから食べ始める。凛の家では朝食の間にテレビを付けてニュースを見ると言うことはしないらしい。それならばまぁいいかと俺もテレビのことは忘れて食べた。


「自分で作るよりも断然美味い。何か料理の仕方に違いでもあるのか?」

「ん〜どうだろ。私も普通に後ろに書いてある説明とか料理アプリを見てそのまま作ってるだけだからなぁ。私が作ったから美味しいのかも!」

「確かに、そうかもしれない」


 料理のやり方に違いがないのならば作り手に原因があるとしか考えられない。俺はその意味で肯定したのだが、凛が突然に、えへへ、と頬を赤らめて喜んでいたので何か違うことを言ってしまったのかもしれない。


「今度は空くんが作ってくれた料理も食べてみたい!」

「あ、あぁ。もちろん」


 今度って一体いつのことなのだろう、とかそもそも今度ってあるの、とか思いながらも流れに逆らうことができずに頷いてしまった。

 あれほどまでに告白してきた相手に対して容赦のなかった凛が今では結構ヘにゃへにゃになっている。露見すればこのギャップもまたファンを魅了する一つとなるのだろうが、今のところはまだ俺だけの特権だな。と言うかファンってなんだよ。

 凛もまた寝起きなのかもしれないな。頭がまだ起きていないのかもしれない。


「凛は何時に起きたんだ?」

「私? 私はねぇ……。えっと、大体……六時ぐらい?」


 一時間前から起きてまだ寝起きの頭とは。

 と、そこで俺も大事なことを忘れていたことに今更ながらに気づいた。


「そういえば、今日の昼はどうするつもりなんだ? 一回家に帰る余裕はないと思うから購買かコンビニで買っていくかだけど」

「そうだねー。ここから学校行かないと時間的に遅刻しちゃうし、簡単にだけどメイクもしたいからなぁ。購買で済まそうかな」

「よければ俺が弁当作ろうか? と言っても作り置きしていたものを詰めたり冷凍食品で埋めたりするだけで卵焼きを余白があれば入れるぐらいだけど」


 どうせ一人分も二人分も変わらないだろう。凛の弁当箱は昨日の内に洗っているからそれを使えば問題ない。精々父さんの分がなくなるだけだが、あの人は外食でもしてきてもらおう。

 返事を待っていたが一向に返ってこないので凛の方を向く。すると彼女はぴたりとまるで無機物になってしまったかのように止まっていた。時間の流れを疑うほど微動だにしていなかった。

 そろそろ瞬きをしないと目が乾燥して痛くなるぞ、と言いたくなるほどの時間が経っても石になったままだった。


 あー。これは完全に引かれたやつだな。


 そこで俺はようやく気づいた。

 所詮、偽彼氏である俺が弁当を作るなんて烏滸がましいにも程があった。俺の家に誰かがいるという史上初のことに無意識下で喜んでいたらしい。凛ほどの美貌を持てばその辺にいる男子に「ちょっとちょうだい」と言うだけで簡単に食べ物が手に入るだろう。お返しにお礼を言えばそれで等価交換になってしまう。

 俺は完全に調子に乗ってやらかしてしまったらしい。


「あ、えーと、その。だな。今言ったことはなかったことに……」

「たべるっ!! 空くんの作ってくれたお弁当食べる!」

「……? わ、わかった。じゃあ二人分作るよ」


 瞳をキラキラと輝かせて弁当をねだる様子はまるで小学生のようだった。もちろんこの比喩は褒めている。純粋で一途な感じがした。

 俺の思いは勘違いだったと言うことでいいのだろうか。あの視線は断りづらいから貰っておこうと言う視線ではなかった。純粋に食べてみたいと言う興味や好奇心に満ちていた瞳だった。それを信じていいのだろうか。

 とくん、と心臓が高鳴った。

 これは見せ所かもしれない。


 昨日今日と台所は凛に占領されて俺の出番がほとんどなかった。それを挽回するときは今だろう。


「私、着替えてくるね」

「よし、今日のはいつにも増して張り切って作るぞ」


 めちゃめちゃ頑張った。そのせいで時間ぎりぎりとなり、結局時間を分けて登校することができず、二人仲良く門をくぐった。

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