グルメな悪魔のひと工夫

佐藤いふみ

グルメな悪魔のひと工夫

 部屋の隅の暗がりから悪魔が現れた。


 天井の高さや部屋の広さなど無視して、俺の頭上に聳え立つ。


 頭の両側から生えた捩れた角が、尖った耳の脇を通って顎まで伸びている。


 黒目しかない切れ長の眼で俺を見下ろし、悪魔は言った。「さあ、お前の魂をよこせ」


 腹の底に響く重いバリトンだ。


「どうした? 貴様の願いは叶えてやったではないか」


「俺の願い?」


 俺にはさっぱり何のことか分からない。


「分からないのか。手を見ろ」


「手?」


 俺は自分の両手を見た。赤黒い液体で真っ赤に染まっている。


 ——これは?


「足元を見ろ」


 視線を下に向ける。


 そこには、父と母が横たわっていた。折り重なるように倒れ、体のあちこちから血を噴き出して――死んでいる。


「だ、誰がこんなことを……?」


 血溜まりの中に鈍く光る包丁が転がっている。


 悪魔はせせら笑った。「お前は言ったではないか。鎖を断ち切る勇気が欲しいと」


「俺が?」


 混乱する思考は焦点を結ばず、うまく記憶を探ることができない。


 俺は悪魔の言葉を反芻した。


 鎖を断ち切る――。


 勇気が欲しい――。


「ああ……」


「思い出したか」


 そうだ。俺は両親を殺した。


 愛情という鎖で魂を縛られたまま惨めに生き長らえたくないと思った。鎖を断ち切りたかった。


 俺は悪魔を見上げて言った。「早く、俺の魂を奪ってくれ」


「……承知した。約定に従い、貴様の魂をもらい受けよう」


 悪魔は両手の黒いかぎ爪を、俺の額に強く押し当てて歌を唄った。


 朦朧とする意識の中で、俺は自分の口から白い煙のようなものが立ち昇るのを見た。


「……死なないが?」


「魂を抜いただけだからな」


「魂を抜いたら、普通死ぬんじゃないのか?」


 悪魔は赤黒い手を鼻の前でぱたぱたと振った。


「それは迷信だ」


「じゃあ、俺はどうなる?」


 顎から首にかけて生えた剛毛を撫でながら、悪魔は言った。「お前は魂を失った――つまり、もう人ではない、獣だ」


「獣……」


「そうだ。人の良心はもうない」


 良心がない。本当だろうか。自分ではよく分からない。


「妹のことを思い出してみろ」


 妹……。


「半年前に嫁に行った、妹だよ」と、悪魔が言った。


 妹は両親に可愛がられていた。その期待の全てに完璧に応えていた。


「美人だ」と、悪魔が言った。


 そう、美しい女だ。大学のミスコンで優勝した。俺は――。


「まあ、仕方ないよな。あれだけのいい女なんだから」と、悪魔が言った。


 妹を……襲ったことがあった。高校生の時だ。未遂に終わったが。


「結局、あんな男の物になったわけだ」と、悪魔が言った。


 妹は半年前に結婚した。同じ会社の同期のごく平凡な男――凡百の間抜けと。


 悪魔は血溜まりの中から包丁を拾って俺に手渡し、言った。「行くか」


 俺はうなずくと、両親の寝室を後にして妹夫婦の住む家に向かった。



 ◆◆◆



 1時間後、悪魔は妹とその夫を殺した男の魂を、今度こそ本当に引きずり出した。


 男は魂のみの存在となり、悪魔の胃の中でゆっくりと溶かされ、永劫の苦しみを味わうことになる。


「ほんのひと工夫でいい味になった。たっぷりと穢れた魂は、やはり格別よな」


 悪魔は満足そうに、ぽんぽんと腹を叩いた。




   了

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グルメな悪魔のひと工夫 佐藤いふみ @satoifumi123

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