夢見草【KAC20223第六感】

雪うさこ



 母からの電話が入ったのは、三月末の温かい日だった。東京では、すっかり桜も満開を迎え、春独特のどんよりとした重苦しい空気が巷を満たしている。冬のキンと研ぎ澄まされたような空気はどこへ行ってしまうのだろうか。


「お父さんがね。調子がいいのよ」


 電話越しの母の声は浮かない様子だった。調子がいいのであれば、喜ばしいことであるはずなのに。


「先生が、家族を集めておいたほうがいいのではないかって言うのよ。調子がいいのにね。これって逆に、あまりよくない傾向なんですって」


「調子がいいことが、悪いことだとでも?」


「そういうことよ。ともかく、帰ってきてちょうだい。春休みなんでしょう? お父さんが具合の悪い時くらい、ちゃんと帰ってきなさいよ」


 母はそう言うと、さっさと電話を切った。


 実家を離れて三年になる。今年は大学生活を送る最後の年だった。東京に来て、なにか得たものがあるのか? と問われると、大した実感もない。子どもに干渉するような親たちでもなかった。実家にいても、ここにいても。結局は一緒なのではないだろうか——。


 別段、自由が欲しいわけでもない。何にこだわるわけでもない。将来、どうしても叶えたい夢があるわけでもない。ただ、流れに乗ってここまで来た。それだけの話だから、大学を卒業したらやりたいことなんて、一つもなかった。夢を語っている周囲の人間たちを横目に、焦ることもない。


 ——どうだっていいんだ。今がよければいいじゃないか。


 父は地方公務員だ。おれが物心つくころには、ほとんど家にいない人だった。なにが楽しいのだろうか。朝は早くから家を出て、帰宅するのは、おれが眠ってからの毎日。週末だって、職場に出かけていく。たまに家にいるのかと思えば、職場の仲間を連れてきては、仕事の話をしている有様だった。


 父は祖父と仲違いをしていた。祖父は自分が人生をかけて勤め上げた地方銀行に父を就職させたかったらしい。ところが、父は祖父の意向を無視して、地方公務員に就職したのだ。そこから、父は実家と絶縁状態だという。おれは祖父母の顔は知っていても、実際に会ったことはない。会いたいとも思っていなかった。


 ——一人前に成長できる家庭環境が最低限に整っていれば問題はない。


 両親から愛情をもらわなかったわけではない。しかし、そう愛された記憶もなかった。いつもいない人だ。彼がこの世から消えても、きっとおれは。——そう精神的ダメージを受けるような話ではないと自負していたのだが……。いざ、母親からの不穏な電話を受け取ると、なんだか落ち着かなくなった。


 ——なんなんだ。この言い知れぬ不安は。


 母の言葉を無視することもできるのだが、そうしてはいけないような気がして、おれは簡単な荷物をまとめて帰省することにした。



***



 母からの電話を受けてから二日後。父の入院している病院に到着すると、母が泣いていた。高校生の妹——みのりが、彼女の肩を抱いて励ましている。


「お兄ちゃん! 遅いよ」


 みのりの声に、事態が切迫しているのが理解できた。


「危篤——なんですって。お父さん。もう意識が朦朧としているのよ」


 数日前には、軽快しているという報を受け取ったばかりだったのに。医師の診立ては当たっていたというのだろうか。みのりは言った。


「死期が近い人って、一旦良くなることがあるんだって。お父さんの病状は、もう末期的だったのに、急に元気になったから、お兄ちゃんを呼んだのに。もう一日早かったら、お父さんと話できたんだよ」


 みのりはそう言った。

 人は、死期を前にして様々な反応を示すそうだ。身体の変化はもちろんだが、性格が変わる者もいるという。穏やかな人柄な人間が、急に攻撃的になって周囲を騒がすこともあるそうだ。

 

 ろうそくの炎が、消え入りそうな瞬間、ぱっと明るく煌めくように——人は死の前に最後の力を振り絞るのだろうか。


「ご家族様。中へどうぞ」


 看護師の声に、母は肩を震わせる。いつも家にいない人だったのに。そんな夫でも大事に思っていたのだろう。母は、元々お嬢様育ちで世間知らずなところがある。人がよく、ちっとも帰ってこない父を支え、そしておれたち兄妹を育ててくれた。


「加奈子さん——」


 三人が病室に入ろうとしたその瞬間。後ろから母を呼ぶ声が響いた。振り返るとそこには、父の職場の後輩である吉岡さんが立っていた。彼は血の気のない、まるで彼自身も死人ではないかと思うくらいに顔色が蒼い。肩を上下に揺らし、かなり急いで駆けつけてきた様子がうかがえる。平日の日中だ。仕事はどうしたのだろうか? そんなことを考えていると、母は吉岡さんに縋った。


「どうしよう。吉岡さん! あの人が、あの人が……」


 吉岡さんは、母の肩を両手でしっかりと掴まえて、声を低くした。


「加奈子さん。しっかり。最後に見せる顔。泣き顔じゃ保住さんが心配する」


「……そう、そうよね。その通りだわ」


 母はバッグからハンカチを取り出し、目元を拭った。


「心配ないって見送ってあげましょう。それが我々の使命だ。尚貴なおたかくん、みのりちゃんも。いいね?」


 おれたちは、吉岡さんに連れられて病室に入った。中は父が一人だけ。ぽつんと置いてあるベッドに、彼は横たわっていた。


 昨年、突然職場で倒れてから病巣が見つかった。仕事にかまけて、自分の体調管理をしていなかったのが祟ったのだ。見つかった時には、すでに手遅れ。三ヵ月の余命宣告を受けたのだが、今日までの半年。なんとか仕事をしながらの闘病生活だったと聞く。仕事に復帰できたのは、主治医も驚くべきことだったという。


 ——仕事、仕事、仕事。結局は仕事の人生。仕事に賭ける執念だけは、病気をも凌駕するのだろうか。


 そんなことをぼんやりと考える。吉岡さんと母が父の側による。すると、不思議な事に、昏睡状態だった父が目を開けた。彼はやせ細った左手を母に差し出す。


「加奈子……」


 父は顔を寄せた母の耳元で、なにやら囁いた。母は「うう」と嗚咽を洩らす。それから父は右手を差し出した。吉岡さんは、その手を握る。


「吉岡。お前に会えてよかった。——加奈子を。それから、子ども達を頼む」


 父はそう言った。そう言ったのだ。心の中が落ち着かなくなった。なんだ、この違和感。吉岡さんは、父を見下ろして泣きそうな笑みを見せた。


「任せてください。大丈夫。このおれが。必ず……」


 生気のない父の瞳は、必死に吉岡さんに向けられている。それに応えようと、吉岡さんも父を見下ろしていた。


 ——ああ。そういうことか。なんだ。


 言葉に現わせないけれど。この瞬間に、おれは父と吉岡さんの関係性に気がついた。そう。気づいてしまったと言うべきか——。



***



「おれ、梅沢市役所に就職することにする」


 父の葬儀が終わり、喪服姿の少し小さく見える母の背中を見た。彼女は弾かれたように振り返った。


「なにを急に。あなたはお父さんの後を追わなくていいんだよ」


「別に。そういうつもりじゃないけど。母さんだって、いつまでも専業主婦ではいられないよ。まだ、みのりは高校生だし。金がかかる。それに、なんだかんだと一人で背負うことはない。おれだって子どもじゃないんだから。できることくらい、ある」


「私一人で大丈夫なの。あなたは、せっかく東大にまで行ったんだから。こんな田舎で仕事をしなくても……」


「言葉には言い表せないけどね。なんだろう。そうしたほうがいいって思ったんだ」


「どういう風の吹き回しなのかしら」


 ——それはおれにもわからない。けど。そうしたほうがいいって、おれの中が言っている。


「母さん一人では、頼り甲斐がないしね」


「まあ。本当にお父さんに似てくるわね。言葉がきついんだから」


 損得抜きで動く時があるものだ。自分の将来がどうとか関係ない。ただ一つ。やってみたいって思っただけだった。


「心の赴くままに生きるのがいい」


 父の残した言葉で、覚えているのはそれだけだ。祖父の期待を裏切り、自分の信念をもって、命を賭して仕事に生きた父だ。その後を追うつもりはないけれど——。


「ああ、そろそろ桜が咲くのね。桜って別名『夢見草』というらしいわね」


 寺の境内にある桜の木は、蕾も大きい。桜色に膨らんだ蕾。死んだものは帰らない。そこで時間が止まる。だがしかし。おれたち生者の時間は止まってはくれないのだ。おれたちは死んだ者の思いまで背負って生きていく。それは、背負えば背負うほど重くなり、枷になるのだろうか。


「お母さん。お兄ちゃん。なにしているの? 住職さんが探していたわよ」


 みのりの明るい声に引っ張られて、母とおれはその場から離れた。この選択が間違いではないことを確信して。





—夢見草 了—

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