【KAC20223】夫の秘密

いとうみこと

骨折り損の草臥れ儲け

 絶対に怪しい!


 大沢弥生おおさわやよいは確信した。夫の悠斗ゆうとは浮気しているに違いないと。


 根拠はいくつもある。

 まず、家の中でも常にスマホを持ち歩くようになった。

 以前は促しても嫌がったのに、スマホにロックを掛けるようになった。

 パソコンを極力別の部屋で使おうとするし、弥生が部屋に入るとすかさず画面を切り替えているフシがある。

 前はよく一緒に映画を観ていたのに、最近は誘ってもゴニョゴニョと言い訳をして観たがらない。

 弥生が風呂に入っている時に限って電話する声が聞こえる。しかも、小声で!

 最近やたらと残業や休日出勤をする。


 そして何より、悠斗は時々ひとりでニヤけている。


 これだけ証拠が揃えば、誰がどう考えても浮気だろうと弥生は思った。しかし、どれも状況証拠ばかりだ。弥生は悩んだ。親にチクるのは気が重い。悠斗とは同じ大学の出身なので、友人に相談するのは危険だ。弥生はひとりで悩み続けた。


 このまま目をつぶるか。


 ……それはムリ!


 では、探偵を……


 お金がかかる!


 さんざん迷った挙句、弥生は悠斗を尾行して、自らの手で浮気の証拠を掴むことに決めた。


 悠斗は医療機器メーカーに勤めている。無遅刻無欠勤、ついこの間までは仕事が終われば真っ直ぐ帰って来るような真面目人間だった。その悠斗が残業で遅くなると言い残して家を出た日、弥生は悠斗に内緒で有給を取った。


 その夕方、弥生は人生で初めて変装をした。長い髪をまとめてニット帽を被り、タートルネックに半ば顔を埋め、買ったばかりでまだ悠斗に見せていないコートを羽織って伊達眼鏡をかけた。支度をしている間も、歩いている時もずっと胸がドキドキして、それは悠斗の会社近くで悠斗が出てくるのを待っている間もずっと続いた。


 悠斗を待つ間、弥生はふたりのこれまでに思いを馳せた。悠斗と出会ったのは大学の映画サークルだ。ただ、同級生とはいえ専攻は違ったし、サークルも百人を超える大所帯だったので、当時は顔と名前が一致する程度の付き合いだった。

 それが、六年前にサークル仲間が映画監督デビューを果たし、そのお祝いの会で再会して急接近、結婚に至ったという経緯があった。

 大きな喧嘩もしたことはないし、夫婦仲は至って円満だった。少なくとも、弥生はそう思っていた。


 子どもがいればこんなことにはならなかったのかな。


 弥生がそんなことを考え始めたとき、悠斗の姿が目に入った。定時に退社していることからして、残業があると言ったのはやはり嘘だったのだ。誠実だと思っていた悠斗が平気で嘘をつく男だったと知って、弥生の胸はキリキリと痛んだ。そんな思いはつゆほども知らず、悠斗は真っ直ぐ駅に向かって歩いていく。弥生は激しくなる動悸をこらえつつ、一定の距離を保って悠斗の後をつけた。


 途中悠斗が誰かに電話をかけたので、いよいよ待ち合わせかと思ったのだが、弥生の予想に反して悠斗はいつもの電車に乗り、自宅の最寄り駅で降りた。今日は残業が無くなっただけで、夫の浮気なんて自分の妄想でしかなかったのだと胸を撫で下ろしかけたその時、改札を出た悠斗が自宅とは反対の方向に歩き出した。


 再び高まる緊張に心を震わせながら、弥生は尾行を再開した。悠斗は駅裏の古びたファミレスに躊躇なく入って行った。悠斗が奥の席についたことを確認してから、弥生も後に続いた。「お好きな席にどうぞ」という店員の言葉に感謝しつつ、通路の植栽を挟んだ、悠斗の斜め後ろの席についた。そこからは開いたパソコンの画面と悠斗の横顔が見えたが、画面の詳細は全くわからなかった。


 温かい紅茶で乾いた喉を潤した頃、ひとりの客が入ってくるなり店内を見渡し、真っ直ぐ悠斗の席へと向かうのが見えた。化粧っ気のない顔にショートヘアの四十代くらいの女性で、ごくありふれた顔立ちをしている。お互いに軽く会釈して席につくと、すぐさま店員に飲み物を注文し、コートを脱いだ。暗くてよくわからないが、ナースの制服のように見える。ふたりは何やら話し始め、時折軽く笑いあった。弥生は全神経を集中して聞き取ろうとしたが、殆ど客のいない店内でも内容まではわからなかった。


 あんな年上の地味な女性と浮気なんてするんだろうか。


 弥生はだんだん自分のしていることに疑問を感じ始めていた。そもそも証拠を掴むつもりで来たのに、今のところなんの収穫もない。あの女性が医療従事者だとしたら、仕事の話だということもあり得るのだ。

 弥生は何か虚しくなり、残った紅茶を喉の奥に流し込んで帰り支度を始めた。すると、悠斗と連れの女性も席を立った。弥生は植栽に隠れるように身を縮め、ふたりをやり過ごした。伝票は悠斗が持っていた。


 もしかしてこの後ふたりで……


 弥生が店を出ると、駅の方角にふたりの背中が見えた。地元の駅近くを堂々と歩いていることからして、やはり浮気ではないのか。弥生はシーソーのように揺れる思いを持て余した。それでも、ふたりのあとを追わずにはいられなかった。


 不運にもなのか、幸いにもなのか、ふたりは駅前で会釈して別れ、悠斗は家の方向に向かって歩き出した。ホッとしたのも束の間、このまま先に悠斗が家に着くと、この不自然な服装の言い訳をしなければならないことに気づいた弥生は、別の道を猛ダッシュし始めた。何としても、悠斗より先に家に着かなければならない。


 その時スマホが鳴り出した。悠斗からだ。咄嗟に悠斗に買い物を頼んでコンビニに足止めするというアイディアを思いつき、弥生は平静を装って電話に出た。


「もしもし、ちょうど良かった。帰りに買い物頼みたかったの」


「……」


「もしもし、悠斗?」


「ここで何してるの?」


 すぐ後ろで声がして、弥生はスマホを落としそうになった。弥生が恐る恐る振り向くと、そこには無表情の悠斗がいた。


「え、あ、ちょ、ちょっと買い物に……」


「そのカッコで?」


 弥生は慌てて伊達眼鏡を取った。既にこの企みが夫にバレていることは明らかだった。


 悠斗は無言で歩き出した。仕方なく弥生もその後に続いた。家に着くまでに誰にも知り合いに会わないことだけを願いながら。




「怒ってるよね?」


 家に着いても悠斗は無言だった。そのままリビングのテーブルにパソコンを置くと、ソファに腰掛けた。


「言い訳するつもりはないんだけど、最近悠斗が……」


「座って」


 弥生の言葉を遮るように悠斗が言った。弥生が座ると、待っていたように悠斗がパソコンを開けた。そこにはメール画面が表示されていて、弥生はその件名に釘付けになった。


『第六回 カドヤマ映画祭 このミステリーがヤバい! 脚本コンクール入賞のお知らせ』


「なにこれ!」


 弥生は本文を読んだ。悠斗の脚本が佳作に選ばれたこと。テレビドラマ化されること。ついては大幅な修正が必要であることなどが書かれていた。


「うそ……ホントなの?」


 弥生は悠斗の顔を見た。悠斗が頷く。


 その時、弥生は突然思い出した。友人の映画監督デビューが決まったあの祝いの席で悠斗が言った言葉を。


「俺もいつか映画の脚本を書く」


「悠斗、書いてたんだね。私ちっとも知らなかった」


「まだそんな夢追ってるんだって思われるのが嫌だったんだ」


「そんなこと!」


 そこまで言って、もうひとつ弥生は思い出した。結婚した当初、酔った悠斗が脚本への夢を口にした時「そんなの無理に決まってるじゃない」と言った自分の言葉を。


「黙っててごめん。余計な詮索をさせちゃったみたいだね。浮かれてて気づかなかった。医療ミステリーだから、つてを辿っていろんな人に取材してたんだ。残業とか嘘言ってホント悪かった」


 悠斗が頭を下げた。弥生は慌てて悠斗の両腕をつかむ。


「私の方こそ勝手に妄想して暴走してごめんなさい。それと、夢を笑ったりして、ごめんなさい」


 弥生が頭を上げると、悠斗の笑顔があった。


「じゃあ、おあいこだね」


 弥生も笑顔になった。そして悠斗の胸に飛び込んだ。


「浮気じゃなくて良かった〜!」


 悠斗がぎゅっと弥生を抱き締める。


「俺が浮気なんかするわけ無いだろ?」


 弥生は大好きな人の腕の中で、心底安堵していた。




 ひしと抱き合う夫婦。幸せそうなふたりだが、夫がニヤリと笑ったのは気のせいだったのか……

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