ガラスの靴じゃ走れない

姫嶋ヤシコ

ガラスの靴じゃ走れない

 とある昼下がり。

 部屋に入るとソファに座って熱心に本を読んでいる、小さな背中が見えた。

 一体何を読んでいるのだろうかと気になって、後ろから覗き込んで見る。

 描かれた挿絵の端に少ない言葉が四~五行程あるそれは、子供向けの絵本のようだ。綺麗に着飾ったお姫様が長い階段で靴を片方落としているその場面で、彼女は解せないと言わんばかりの顔をした。


「そんな難しい顔をして、どうしたんだい?」

「このおとぎ話が、どうにも腑に落ちなくて」


 おとぎ話を読んでいるのに、何をそんなに難しく考える事があるのだろう。

 おとぎ話とは、謂わば夢物語なのだから、そんなに難しい顔をして読むものではないはずなのに。

 しばらくその顔を観察していると、彼女はつまらなさそうに読み終わった絵本をテーブルへ放り出した。


「僕も、読ませてもらおうかな」


 彼女の返事を聞かないままテーブルに放られた絵本を手に取ると、クッション一個分の距離を開けて腰を下ろし、少し厚めの表紙を捲って目を通す。

 継母とその連れ子に意地悪をされていた少女が、魔法使いの力で美しく着飾って舞踏会へ行き、そこで出会った王子に見初められて最後には幸せを掴むと言う王道の内容が書き連ねられている。


「うん、王道のストーリー。ハッピーエンドで良いじゃないか」


 にっこり笑って短い感想を述べると、彼女は呆れたような溜息を吐いて僕の手から絵本を取り上げた。一体、何がそんなに気に入らないのだろう。


「現実って、こんなに上手くは行かないと思う」

「これは、おとぎ話だからね」


 再び絵本を捲る彼女の指先の動きに視線を移した。


「だいたい、魔法使いなんて一体どこから湧いて出て来たの?」

「世話焼きな、ご近所のお婆さんだったんじゃないのかな?」


 僕の素っ頓狂な答えに、再び呆れた溜息が聞こえてきた。


「じゃあ、ドレスやかぼちゃの馬車はどうやって?」

「ドレスはお婆さんの趣味の裁縫の賜物で、かぼちゃの馬車は畑で偶然大きなかぼちゃが取れたのを利用したんじゃないかな?」

「ドレスについては、まあ納得できたけど、かぼちゃの馬車は無理があるわ」

「僕の第六感がそう言ってるんだから、間違いないよ」


 今度はさっきよりももっと呆れた溜息が聞こえてきた。


「それじゃあ、ガラスの靴は?」


 いつの間にか絵本のページは、お姫様がガラスの靴を片方落としている場面になっている。


「こんなガラスの靴を履いてたんじゃ、走れないじゃない。歩くのすら危ういのに」

「確かにこれで走って割れたら、大惨事だろうね」

「あれ、得意の第六感はどうしたの?」


 彼女の現実的な疑問とつっこみにただ苦笑していると、どこか勝ち誇ったような顔が見えた。

 理屈っぽいその中身とは不釣合いな純粋な瞳の輝きが、僕を捕えて離さない。

 子供と大人の微妙な狭間を漂っているような、そんな不安定な彼女が、僕には愛しくてたまらないのだ。


「もしもそんな場面に遭ったなら、僕が君を抱えて走ってあげるよ」

「だったら、怪我する前に捕まえて抱えてよ」

「それならガラスの靴は必要ないね」

「ガラスの靴がなければ、お姫様にはなれないわ」


 我侭な彼女には、流石の僕もお手上げだ。


「どっちにしろ、君は僕に抱えて走って欲しいってことだよね」

「……って、ちょっと待って! 何だか話がおかしな方向に逸れて来てる」

「そうかい?」

「それに、さっきから距離がやたらと近いんだけど?」


 クッション一個分あったはずの二人の距離は、先程のやりとりのどさくさに紛れてきっちりと埋めてある。それに気づいて焦り始めた彼女の手から絵本を取り上げると、乱雑にテーブルへ放り出した。


「おとぎ話に夢を見る事が出来ない君には、現実的な魔法と夢をお届けした方が良いかと思ってね」

「現実的な魔法と夢って、矛盾してる」

「細かい事は気にしないでくれると助かるな」


 テーブルの上で寂しく佇む絵本。

 それに視線を寄越す彼女の瞳に僕しか映らないよう、顎に指先を添えて軽く上に持ち上げる。困ったように笑う彼女は、重なる寸前の唇を動かして精一杯の抵抗を見せた。


「嫌だって言ったら、どうするの?」

「それはあり得ないって、僕の第六感が言ってるよ」

「ご都合主義の第六感ね」


 難なく彼女の抵抗をいなして、触れた唇から解けない魔法を注ぎ込む。

 この先の夢の続きは、僕と彼女の二人だけの物語だ。


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ガラスの靴じゃ走れない 姫嶋ヤシコ @yshikibay

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