新しい色

鍋谷葵

新しい色

 ぽつぽつと久しぶりの雨が降り始め、巻き上がっていた土ぼこりが地面に落ちて、体中に纏わりつく粉っぽさが無くなったことに気付いた今日のこの頃。悲しいことに友達は皆部活で忙しいらしく、唯一帰宅部の僕は暇を持て余している。自分でこんなロクでも無いことを考えるくらいには暇だし、だからこそ図書委員と司書さんしか居ない寂しい図書館に一人で座っている。

 晴天に曇天が立ち込め、一気に薄暗くなったことで今まで着いていなかった電灯がパチッとついた。程よい薄暗さが怠さを緩和していたことが身に染みて分かる。明かりが点くと、僕の頭に立ち込めていた怠さは消えて、暇さんの恋人である眠気はどこかに行ってしまった。脳味噌は覚醒してしまった。

 あいつらが部活を終わるまで、しばらくこの昼寝に適した図書室で寝ようと思っていた矢先のことだ。もしかしたら、僕は不幸なのかもしれない。こんなことで一喜一憂するのは馬鹿らしいな。


「暇だ……」


 入り口から一番近い席の通路側の机に突っ伏していた体を上げ、ボソッとどうでも良い一言を吐き出す。


「図書室に居るんだから本を読めばいいだろ?」


 誰にも聞かれていないと思った声は、どうやら誰かの耳に入ったみたいだ。しかも、丁度良い暇の相手の耳に入ったらしい。

 天は僕を見放していない! 確信だ。


「活字を追うのはめんどくさいんだよ。那智」


「なら、図書室から出て行ってくれないか。と、言いたいところだけれど俺と司書さん以外誰も居ないからそうも言えないのが腹立たしいよ」


 銀縁の丸眼鏡を掛けた美少年は、ウルフカットの黒髪を弄りながら図書室全体を見回すと、頭を抱えて溜息を吐く。那智の眼鏡越しにも、俺の裸眼にも、図書室に並べられる長机とパイプ椅子には誰も映らない。


「でも、こうして暇を潰せる相手を見つけられたから僕は満足だよ」


「図書館ではお静かに」


「那智から話しかけて来たのに?」


「……」


 やんちゃしてそうな見た目なのに、真面目なギャップ萌えを見せる那智は、怪訝な眼差しを俺に向けてくる。それもまた良い。


「なんで笑ってるんだ? キモイぞ」


 美少年のギャップにどうやら僕の口元は緩んでいたらしい。

 那智は一歩退いて、僕に拒否感を示す。僕のガラスのハートに、一粒の石粒が掠って、僕の心を傷付ける。


「僕だって意外と傷付くんだぜ?」


「知らないよ。ともあれ、図書館に居る時はお静かにだ。迷惑をかける相手が例えここに居なくても、高校生なんだから公共のマナーは守ってくれよ」


「お固いねえ」


 頭の後ろで手を組み、パイプ椅子の後ろ脚に重心を乗せて、僕はゆらゆらと揺れる。通路側に立つ那智は、緩みきった僕の態度を見ると呆れ返って図書委員の定位置のカウンターに戻ろうと、踵を返した。

 ただ、それもつまらない。どうせ暇なんだから一つくらい事件を起こしてやろう。もっとも、僕にとっての事件じゃない。僕は対岸の火事を眺める放火魔で良い。当事者だけど当事者じゃない立場に立ち続けよう。

 

「ああ、そうそう。この間の写真どうしたら良い?」


 ズボンのポケットからスマホを取り出して、那智の背中にあくどい火矢を放つ。何か思い当たる節があるのか、那智は立ち止まった。

 那智の勘は妙に良いみたいだ。そこもまた僕が気に入っているところだ。もっとも、そんな勘の良さが自分を傷付けることになるんだけどさ。


「……この間の写真?」


「先週の金曜日。僕も悪いと思ったけど、好奇心には勝てなかったよ」


「……撮ったのか?」


「撮ったよ。那智がまだ希望を抱いているようだったら申し訳ないけど、マジのガチで撮ったさ。写真見る?」


 からかう調子の僕の声に、那智は恐る恐る振り返った。面の良い顔には、薄らと戦慄が走っている。余裕綽々の体裁でいつもクールぶってる那智の弱々しい面持ちは、こちらの興奮をそそる。

 怯える那智は一歩一歩、運命を踏み抜いて行く。もっとも、僕がこんな大層な言い方をするには分不相応だ。那智にしてみれば、僕に近づき、その真実を確かめることは運命を変える行動だ。けれど、僕にしてみればただ一人の運命を弄んでいるだけに過ぎない。そして慌てふためくイケメンをほくそ笑むだけだ。

 腐った人間性を隠し通す僕の傍らに、臆病な一匹の子犬はぶるぶると震えながら立ち止まった。見上げると表情は凍りついて、ほとんど真顔に近い。唇の血色が青ざめていることからよっぽど緊張していることがわかる。悪いことをしているっていう自覚があっても、罪を重ねているっていう自覚があっても、楽しいからこういうことは止められないね。


「ほら、これ」


 決して内面を見せないように、頬杖をつきながら数日前の那智を今の那智に見せつける。爽やかな笑みを忘れないように。


「……それで?」


 スマホを見ると那智は愕然とした。そして、目を伏せがちに、震える声で那智は声を掛けてきた。仕方が無いことだ。むしろ、驚かないで、慄かない方がおかしい。だって、秘密事がかなり近い人にばれてしまったんだからね。


「それでって、何もないよ。ただ那智の運命が僕に握られていることを忘れないで欲しいなってことかな? それだけだよ」


 ふざけた調子で僕は軽い言葉を紡ぐ。

 明らかに場違いな言葉遣いだってことも、軽率な言動だってことも分かっている。

 けれど、僕は那智の苦しむ顔が見たい。澄ました奴の顔が崩れるところを見ていたい。暇つぶしの範疇を超えていることだと分かっていてもね。


「嘘吐け」


「嘘じゃないよ」


「嘘だ」


「嘘じゃないって」


「嘘」


 那智は苛立ちながら、僕を恐れている。びくびくと、どうなるか分からない現実に震えている。虚勢を張って、何とか僕の持つ証拠に打ち勝とうとしている。

 健気で可愛い。目に入れても痛くないくらい可愛いし、美しい。このまま、那智の顔を肖像画にして収めたいくらいだ。もっとも、僕に肖像画が書けるほどの腕は無い。色の違いもあまり分からないし。


「嘘じゃないよ。神に誓って言える。例え、那智が同性愛者だってことの証拠を得ていても僕は那智をどうこうしないし、何も強制しないよ。那智は今まで通り過ごしてくれれば良いよ」


「……それでその写真を消してくれるのか?」


 震える声で那智は強気な提案を僕に寄越した。相違う精神と肉体に、不均衡に僕の胸は高まる。


「それとこれとは話が違うさ。そいつは僕の気分次第だよ。僕が何時消すかもわからないし、何時までも消さないとも限らない。けれど、大丈夫。那智が僕によっぽどのことをしない限り、僕は那智の写真を他人に見せるつもりは無いよ」


「飼い殺しじゃないか……」


「そう力んじゃ駄目だよ。言っただろう。那智が僕に何もしなければ、何も起きない。何も変わらない。これまでと変わらない日々を過ごせばいいんだ。那智の世界が変わることは無いよ」


 手をギュッと握り締めた那智の言葉通り、僕は那智を飼い殺しにする。たった今発した言葉とは、まるで異なることだけれど、建前と本音を理解してもらえれば、僕の胡散臭い言葉を鵜呑みにしないと信じているよ。

 疑り深くて、頭の回転が速い那智は僕の予想通り、僕の言葉を鵜呑みにしなかった。那智は僕のスマホと手を払いのけて、身を乗り出した。それから、僕の顔にぐりんと顔を向ける。男にしては艶やかな髪の毛が、男にしては長いまつ毛が、男にしては白い肌が、僕の視界を占領する。


「那智、どうしたんだ?」


「どうしたもこうしたもない。ただ、俺は俺の過去を消して欲しいだけだ。そのためなら何だってする。お前に付き従い、お前の言うことは何だってやろう。何でもしてやる」


 早口で、まくし立てるように、相当焦った調子で那智は言葉を吐き続ける。

 そして、僕の脳裏にはあることが想起される。


「へえ、それは良いね。それじゃあ、僕に色を見せてよ。那智が何時も見ている色を。僕には分からないけれど、那智には分かる特別な色をさ」


 那智は僕の言葉を聞くと、美しい瞳をカッと開いた。そして、僕の意志を理解したのか銀縁の丸眼鏡を外した。

 裸眼の那智は美しい顔を僕に称える。そして、ふっくらとした血色の悪い乾燥した唇を僕の唇に近づける。

 那智と僕の唇は接触する。

 那智の唇は見かけどおり、ざらついていた。

 けれど、僕の視界には新しい色が映っていた。濁っていて、けれども輝かしくて、何時までも見ていたい超常の色が。

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