03

 雲一つない青天井が頭上に広がっているのに、昨晩降った雨のせいでアスファルトの道路はまだ濡れていた。歩道の端にある底の浅い小さな窪みには行き場を失った水が溜まり、泥色のスクリーンに街の景色を反射している。

 machina-47が何の考えもなしに空を眺めていると、長靴を履いた義足の少年とその友達と思わしき子供たちが路地裏からいきなり飛び出してきた。少年たちが水溜まりを踏んづけると小さく泥水の飛沫があがり、宙を舞った水滴はどれもmachina-47の足元にぴちゃりと落ちて地面に沈んでいく。

 楽しそうな笑い声をあげながら走り去っていく少年たちの背中を追うように、47は肩にかけたスポーツバッグを持ち直し、止めていた足を再び動かし始めた――――。


 正午を過ぎた辺り、繁華街は理性や空腹に対する攻撃力が格段に増す。この時間帯は特にあちらこちらで看板を掲げる飲食店が接客と炊事に追われている。

 胃の中身が空っぽの状態でこの場所に迷い込んだなら既に逃げ場を失ったも同然、『匂い』という目では見えない網に引っ掛けられてしまうだろう。スキヤキ、ヤキニク、ラーメン、チャーハン、ヤキソバ、オコノミヤキ、ありとあらゆる匂いがこの繁華街を包み込み、迷い人の食欲を刺激する。

 そんな繁華街を歩く47は、通りがかりにチラリと一軒の中華料理屋のガラス窓の向こうを覗いた。店の外からでも見える位置のカウンター席に着いたスーツ姿の中年男性が、料理を口いっぱいに頬張り、咀嚼し、嚥下し、また一口と箸を休めることなく食事を進める。店側に「そこで美味しそうに食べてもらってるだけでいい」という条件で雇われた役者なのではないかと疑ってしまうほど美味そうに食べるあの男の姿を、47は「もう少し見ていたい」と思いながらもその店の前を通り過ぎた。

 ――――基本的に、アンドロイドは食事を必要としない。だが、アンドロイドが人間社会で生活していく中で段々と食事を娯楽として楽しみたいというアンドロイドは増えていった。

 人間たちが美味い美味いと口を揃えて食べているアレは何なのだろうか。願いが叶うのなら、自分もソレを食べてみたい――――。

 結果として、世の中の大半のアンドロイド――――もちろんmachina-47もその母集団に含まれている――――は胃を模したパーツを後付けしたり、味覚や嗅覚といった五感の追加・拡張を行っているため、味覚の鋭敏なアンドロイドや周辺地区の美味い店を知り尽くしているグルメなアンドロイドなんかが生まれたわけだ。

 47は自分の足がフラフラっと飲食店の席に向かわないよう、ただ真っすぐ向かうべき方向を見つめながら繁華街の人込みを足早に抜けていった。足を止めてはならない、匂いを味わっては行けない、無駄な出費は控えるのだ――――。


 繁華街の通りをしばらく歩き続けるとまた別の通りに出る。そこまで来れば、ひとまずは衝動的な食欲を抑える必要はなくなる。またそこからしばらく歩いて、47はとあるガレージ付きの民家の玄関前に立った。

 ガレージの閉じたシャッターには、『アサクラ工房』と色鮮やかなペンキで直接塗られており、この家の主の職業だとか社会における役割を明確に示していた(デザインや配色のセンスには敢えて触れないでおくとしよう)。

 玄関のドアを三回ほど強く叩く。反応がない。もう一度三回叩く。

 するとドアの向こう側から物音がだんだんと近づいてきて、「今日は定休日だよ馬鹿たれ!」と紺色の作業着を身に纏った女性がドアを開けて姿を見せた。

 声は連日のアルコールと煙草でやられているのか枯れ気味で、声からは一切の女性らしさを微塵も感じない。年齢はアンドウより少し上、六十代か七十代ほどだろうか。彼女の正確な年齢を47は知らなかった。

 赤茶色の髪は活発な男児のように短く切り揃え、額の上に乗っかっているゴーグルはさながらヘアバンドかカチューシャのようであった。

 顔の皮膚全体にシワが目立ち始めている、突然の来訪者を邪険に扱うその眼光は刃物のように鋭く、体は置いても仕事は捨てないという彼女の心構えを代弁しているようにさえ感じる。

 女性の容姿をじろじろと見まわしながら、47は首を傾げた。

 はて、今日はアサクラ工房の定休日だっただろうか。そもそもアサクラ工房に定休日なんてものがあっただろうか。


「……ん? あれ、どっかで見たような……ちょいとアンタ、名前は? もしくは識別番号」

「machina-47です。お久しぶりです、アサクラさん。休暇中の訪問をお許しください」

「47……あぁ思い出した! いや悪いね、昨日飲みすぎた酒がまだ残ってるみたいで今日は臨時で店を閉じてたんだよ。でも47ちゃんが来たんじゃぁそんな悠長なことは言ってらんないね。ほら、早く上がりな! すぐお茶とお菓子用意すっから!」


 47が「お構いなく」と言い切るよりも早く、アサクラは家の奥に酒が残っているとは思えないほど駆け足で戻っていった。

 アサクラは47が警備用アンドロイドとして暮らしている間からお世話になっているエンジニアだ。アンドロイドのアップグレード・メンテナンスなどを専門に行っており、その技術力は折り紙付き。おまけにmachina-47のことを実の孫娘のように可愛がっており、先ほどの手厚い歓迎もそれが故である。

 アサクラの家の玄関で靴を脱ぎ素足のままアサクラ家の床を踏む47。木のひんやりとした温度が足の裏に染みる。かつての日本家屋を思わせる木造の空間は、生活感に満ちていた。かつて警備時代を共にしていた人間の同僚がアサクラの家を見て「ひいばあちゃんの家を思い出した」と言っていたのをふと思い出した。ただ残念なことに、今でも47にあの言葉の真意は理解できそうにない。

 案内された茶の間は畳の香りがした。畳の端くれや、人が頻繁に通るであろう場所がささくれているのも『生活感』の演出に役立っているのであろう。

 47は敷いてもらった座布団の上に正座をした。足にかかる圧で姿勢を崩したくなるぐらいに、アサクラがお盆に温かいお茶の入った二人分の湯呑とお茶菓子を乗せて戻ってきた。それを慣れた手つきでちゃぶ台の上に乗せていくアサクラを見て47は、決して言葉には出さなかったが「ここまでしなくていいのに」と、困ったような嬉しいような笑みを浮かべていた。

 アサクラは47の向かい側に座布団を敷いて腰を下ろす。湯呑のお茶を啜り「あちっ」と小さく声を漏らし、湯呑をまたちゃぶ台の上に置くと「今日はどうしたんだい」と唐突に話を切り出した。

 47は、躊躇う様子などひとつも見せず答えた。


「仕事を辞めました」


 47の言葉にアサクラが返したのは沈黙。ちゃぶ台の木目をなぞっているかのように視線を落とし口は閉ざしたままだった。

 そしてまた一口お茶を啜り「なんとなく察しはついてたよ、アンタがこの前ウチに相談に来た時からね」と言葉を溢した。

 47がアサクラ工房を尋ね、自身の不調は何かのエラーか何かだと思いカウンセリングとメンテナンスを受けたのはついこの間のことだ。。

 47はアサクラのことを相手の心を読める能力者か何かだと前々から思い込んでいる。相手の思考がまるで透けて見えているかのように、他者の気持ちを汲み取りその場その場に適切な言葉をかけてあげられるアサクラ。その能力の実態が何であれ、47は「アサクラはきっと超能力者なんだ」と信じるその気持ちが揺らぐことはない。


「新しい環境は微妙だったかい?」

「私には合いませんでした。職場の人間との良好な関係構築、与えられた仕事を的確にこなせる作業能力、思い返せば思い返すほど至らないところばかりで……」

「『仕事を辞めた』って話にはよくついてくる理由だけど、アンタの場合は生まれが変わってるからね。警備用として生まれたアンタが馴染めないのも当然、ってところだね。だからそうやって気に病む必要もないよ」


 アサクラの言葉はどれも、緊張で張りに張っていた47の心を優しくほぐしてくれた。太腿の上に置いて硬く握っていた拳をゆっくりと解き、自分の湯呑にそっと手を添える。47の手のひらに人肌より少し熱いくらいの温度が伝わってくる。そのままゆっくりと湯呑を持ち上げ口をつける。水が砂地に染み込んでいくように、じわじわと口の中に流れ込んでくるお茶をそのまま喉の奥へ流し込む。

 47の味覚や食事に対する考えは人並みだ、狂ってもいないし敏感でもない、こだわりもない。

 だからお茶葉の良し悪しなんて細かいことはわからない。美味しいものは美味しいと感じるし、美味しくないものは美味しくないと感じる。その程度の認識で済ませてきた。

 湯呑の中で揺れるお茶の緑をじっと見つめ、47は呟いた。


「……渋い、ですね」

「ありゃ、あんまり好きじゃなかった?」

「いえ、でも、なんというか、落ち着きます」


 もう一口、湯呑に口をつけお茶を流し込む。思わず顔の筋肉がピクリと震える渋みも、慣れてしまえば気にならなくなる。

 47の湯呑はすぐに空っぽになった。


「おかわり、もらえますか」

「あいよ」


 アサクラは「よっこいしょ」っと重たそうに腰を上げると、47の湯呑を持って台所に戻っていった。

 茶の間から出ていくアサクラの背中を見送り、ふうと大きく息を吐いた47は『休む』という感覚を思い出したような心境であった。温かいお茶を飲んだおかげで身体はほのかに熱を帯び、このまま畳の上に寝転んでしまえばアサクラがお茶のおかわりを持ってくる前に眠ってしまえそうな、そんな心地よさが47を包み込んでいた。

 結局、47は横にはならなかった。アサクラが持ってきてくれたお茶のおかわりを少し飲んで、揺れる萌黄色を眺めていた。

 47は崩しかけた姿勢を正し、太腿の上に握り拳を置き直し、口を開いた。


「それで、私自身の今後についてひとつだけ、考えていることがあります」

「なんだい、言ってみな」


 47は一瞬だけ考えた。――――アサクラの目に今の私はどんな風に映っているのだろうか、と。

 47がこれから話す『machina-47の今後について』という話題に対して期待をしているようにも見える。だがしかし、何を話すかわかりきっているような無関心も感じとれる。

 アサクラは47の考えを読んでくるのに、47はアサクラの気持ちを汲み取れない。

 心の中で密かに47は、今しがた発生した不平等に歯噛みした。


「自主解体を、希望していま――――」


 言葉を言い切るよりも早く、47の頬には鋭い痛みが走った。同時に人の肌と機械のぶつかる弾けるようでどこか鈍いパシンという快音が茶の間に響いた。

 何が起こったのだろう、突然の出来事に状況を把握しきれていない47の目線の先で、アサクラが目に涙を溜めちゃぶ台から身を乗り出していた。

 湯呑からこぼれたお茶が、ぽたりぽたりとちゃぶ台の端から零れ落ちている。


「馬鹿なこと言うんじゃないよ」


 アサクラのボソリと呟く震えた声が、47の耳には叫けび声にも聞こえた。

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