先輩に口づけを
桜並木を歩く季節は、毎年ひとりで帰路につく。無理をしてまで、誰かと帰りたいとは思わない。とくにこの時期は、ひとりでいた方が楽だから。ただ、今年は会いたい人がいる。こんな季節でも、いや、ひとりだからこそ会いたい人がいる。
深呼吸をして、ローズマリーの香りを探す。
偶然会えれば良いな、と思う。そういう存在は、きっとどんな人にだっている。私の場合、それはひとつ年上の先輩で、同じ高校に通っている人で、その姿をちらと見ただけで胸が暖かくなる人なのだ。
ううん、ちょっと違う。年上だからとか、同じ高校だからとか、胸が暖かくなるだけじゃない。
ただそう、先輩が先輩である限り、どこに居てもきっと見つけてしまう。たとえば、この桜吹雪の舞うなかで、先輩がひとり空を見上げていたら……私は迷わず、先輩を見つける。そう信じていれば、この気持ちは揺らがないんだと信じられるから。
向かい風がスカートを持ち上げた。気流につられた桜の花弁ひとつひとつが、ぐっと視界の外に引っ張られていく。まるで、花弁の向こうになにかが隠されていたみたいに、どぎまぎした。
もしほんとうに、先輩に会えたなら。ああ、どうしよう。どうもしないとはわかっていても、頭の中でなんども想像している私がいる。
桜色のヴェールが取り外されていく。肉付きの良くなめかましい、ふくらはぎ、太ももと下半身から上半身の順で肉体が現れていく。
その肌の彩は白魚の腹よりも鈍い白さだがむしろ、血に浸したような桜の色素とのコントラストを生み出している。一連の流れはあまりにも自然で、先輩がはにかむ一瞬と同じくらい、私の心はもやがかったように、桜の舞うはやさすら、鈍く感じた。
だけど、不可解さに気付いた。
その肉体の持ち主は、靴を履いていない。足先の輪郭はそこだけがひどく歪んでいて、形を捉えきれていない。無重力状態のように浮いているのに、身につけるものひとつひとつは揺れず、身体に固定されている。そもそも、どうして浮いているのか。
そういう点に納得できる理屈をつけるとしたら、私の中での答えはひとつだ。
答え合わせをするかのように、青白い肉体の透明感が増していく。だけどわからないのは、なぜこんな道の途中にとどまっているのか、ということなんだけど。
考え込んでいると、つい目を伏せてしまう。焦点を戻せば、そこにはふたつの蕾が重なり合うかのような風景が、広がっていた。広がっていた。広がっていた。
先輩だ。
見知らぬ女性と対になっていたのは、先輩だった。ローズマリーのような香りがする先輩が、芽吹いたばかりのアザレアに見えたのは、それがはじめてだった。
頬を赤らめ目を伏せた先輩に、彼女に親愛とも恋慕とも取れる目線を注ぐ女性が、口づけしていた。
たった一度きり。すぐにふたりの唇は離れた。糸を引くような湿っぽいものではなく、挨拶のような気安さと、表情から感じ取った強い想いとのアンバランスさに、息が上がった。
もし向かい風がなければ、私は見逃していた。見逃していたら、私はいつもとおなじ、先輩に対する“好き”を感じていたはずだ。
私はいま、並木道の先輩に見とれている。
だけど、ああ。これはもう恋という気持ちではないんだと、そう感じてしまった。失恋の悔しさ、悲しさなんて少しも湧かなかった。
失ったというよりも、新しい恋に出会えた。そんな感覚だった。理性を置いたまま、むしろ今までよりも先輩に近付きたいと感じる本能。その感覚に、抗いたくなかった。
そうだ、そうだそのために。まず、声をだしたい。先輩に近付くための理由が欲しい。
「あの」
びり、と空気が震える。
「えっと……」
先輩は答えてくれた。とつぜん声をかけた私に、応えてくれた。
一歩、一歩ずつ距離をつめていく。少しずつまっすぐに、迷わず先輩のもとへ行きたいのに、足元がおぼつかない。私はいま、先輩を好きだと感じる瞬間よりも興奮している。
「しゃ、しゃし、写真部です!」
カメラなんてないのに、嘘が自然に出てきた。写真を撮りたいと思った。そのために出てきた言葉だ。
いままで、不確かな存在なんて、私の幻覚だと思っていた。
だけど、ひとではなくなった女性が、それでも愛しいと思う先輩。ひとでないままの彼女と、触れ合う先輩。
もっと知りたいと思う。この先のふたりの関係を。
あなたを想う 旧星 零 @cakewalk
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