喫茶グレイビーへようこそ series 4

あん彩句

KAC20224 [ 第4回 お題:お笑い/コメディ ]


 この店で占うと、全てがうまくいくらしい。店の名前は、喫茶グレイビー。オレはそんな店で住み込みで働いている。


 廃墟のようなビルの3階にあるその店は、ろくに客が来ない。どうでもいいような内容の占い目当ての客がほとんど、たまにコーヒー好きがやって来るけれど、オレの仕事は客が来ても来なくても同じだ。



 オレの仕事のメインは掃除だ。4階にあるオーナーのトムさんの部屋の便所掃除と風呂掃除からはじまり、階段全部と店の掃除。

 トムさんにオレの部屋がいかに汚いかを見つかって以来は、自分の部屋を綺麗に保つことも仕事のうちに追加されてしまった。しかもそれは時間外にやれと。


 それでも自分のためだと奮い立たせる。いや、本当はいつ入るかわからないトムさんのチェックに怯えて『キレイ』を保っている。トムさんの腕は極太なんだ。オレのスカスカな頭蓋骨なんかすぐに陥没するはずだ。まだ普通に生きていたい。できれば女の子にモテてみたいし、それまでは現状を保っていたい。


 何度も言うが、オレの仕事は掃除だ。毎日雑巾とバケツを持って歩く。ビルの階段の電気もオレが変えた。電球はトムさんに買ってもらえないかと申し出て、そしたら意外そうな顔をされた。


『お前も気が利くところがあるじゃねぇか』


 そう言って、トムさんはすぐに電球を買って来るようにオレを派遣した。ホームセンターまでは自転車で15分。文句は言わない。なんせトムさんに褒められた。今まで顔を見れば舌打ちのオンパレードだったのに。


 戻るとすぐさま電球を変えた。カバーも念入りに洗ってみた。すると占い師のハルマキさんがそれを見て、とても満足そうに笑った。


『掃除は運気を向上させるのよ、あくた


 オレはその言葉に心が躍った。


 運気が向上する——それはこの店で働きだしてから、ちょっとだけもう起きていた。それは何かというと、2回も褒められたということだ。


 ここで働きだしてから貶されはしても褒められたことがない。うーん、働きだしてからというより、大学にいる時から褒められた記憶はない。

 同じサークルの女の子に、『お腹空くのがお昼時で正確だね』と言われたくらいだ。時間の感覚には自信はある。朝は弱いけれど。 



 しかし、それまでだった。


 オレがその辺に放り投げていた雑巾で滑り、あやさんが転んだ。転んで階段を落ち、肘と肋骨を負傷。肋骨は打撲だったものの肘は見事に骨折で、その日に入院してボルトで骨を固定して翌日に退院した。


 気性の荒い綾さんのことだ、土下座で許してもらえる気はしなかった。靴を舐めろと言われたら素直に舐めるしかない。腹いせに力一杯頭を踏みつけられるかもしれないが、耐え抜こう——そう決意して、黒のアームホルダーで腕を吊るして現れた綾さんに、まずは頭を下げた。


 クズと言われるオレだけれど、さすがにその痛々しい姿を見て胸が痛んだ。オレが雑巾をちゃんと始末していれば骨折にはならなかったんだ、オレが悪い。



 綾さんは、いつも通り痺れるほどの悪い目つきでオレを見下したものの、罵ったりはしなかった。ただ一言、こう言っただけだ。


『ちゃんと責任は取れよ』


 そういう経緯でオレは今、エプロンを着けてカウンターの中にいる。客に出す料理は全て綾さんが作っていた。コーヒーも綾さんが淹れている。オレはこのマシンに触るのが楽しみだったんだけど、そっちは綾さんが許してくれなかった。綾さんが骨折したのは左肘だ。ラテ・アートはできなくとも、右手でコーヒーは淹れられる。


 ただ料理は無理だ。しかし、オレも無理だ。一人暮らしの大学生活は自炊なんて無縁だった。フライパンは持っているけど、未だに新品のままだ。作っても、レトルトの白飯にレトルトのカレー、パスタを茹でてレトルトのルー、もしくはお茶漬けかふりかけか。何から何までレトルトだ。


 でも責任は取らなければいけない。料理の先生は、いつも綾さんにだけ料理を振る舞うミサキさんだ。引き受けたのは骨折した綾さんがかわいそうだからで、決してオレのためではなかった。ミサキさんはいつでも、綾さん贔屓だ。


 まずは米を研げと言われ、初心者あるあるで洗剤なんかで洗うなよと前以て注意される。研げと言われても加減がわからず、ぐりぐりやったら米が粉々になった。その過程を見ていた綾さんとミサキさんは、呆れ顔でそうなるだろうと声を揃えた。


 本当は店のメニューにないのだけれど、料理を知らないオレでもできそうなメニューをと、野菜炒めを作ることになった。

 抜糸までは安静の左肘は、抜糸したところですぐには動かせないだろう。なにしろパンパンに浮腫んでいる。それを目の間に置かれれば文句も言えなかった。オレがマスターできるかは別として、ちゃんとやらなければいけない。


「キャベツ!」


 ミサキさんに指示されて冷蔵庫を開ける。開けたらすぐさま「そこは冷凍庫!」とミサキさんから突っ込まれた。その下を開けて、丸くて緑のモノを持ち上げる。


「それはレタス」


 違う緑の丸を持ち上げると、ミサキさんが頷いた。人参、もやし、椎茸、玉ねぎ、ピーマンにブロッコリー。そして豚肉。


「それ牛肉」


 見た目で選んだらそう指摘され、確認したらパックにそうラベリングされていた。


「意外とわかんないもんだなぁ」


 呟いたら、息ぴったりに綾さんとミサキさんがわかるだろとまたもや呆れ顔。

 見なかったことにして、材料を台の上に並べた。


 キャベツは葉っぱを剥がして一口大に切る、これはできた。椎茸は黒い焦げみたいなのを布巾で取って4等分くらいに切る、これもできた。ブロッコリーも小さな木に分けるつもりで切る、まあ問題ない。


 ピーマンはヘタのところを指でぶち抜けと言われ、その感触を楽しむ。種とわたは綾さんが嫌いだからちゃんと取れと指示され、わたって言うくらいだから白いんだろうとそこを残さず取り除いたら正解だった。縦に細く切る、つもりが太かったらしいが許容範囲で合格だった。


 休憩がてらもやしを洗う。さっきの米の経験からふわふわ水洗い。そして次は人参だ。


「こいつ、固そうっすね」


 ミサキさんに聞くと、その前に皮を剥けと言われる。


「皮」


 繰り返すと、Y字型のステンレスでできたものを渡された。刃がついている。なるほどこれで皮を剥くのか、とやってみたものの、これがなかなか恐怖だった。


「ゆ、指が怖ぇ」


 オレがすーっと皮を削ぐたびに悲鳴を上げ、ミサキさんも同じように悲鳴を上げる。


「本当に指が怖いんだけど!」


「やべぇ、オレの右手と左手なのに使い方がよくわからん」


「確かにそう見えるわ。しっかりちゃんと神経繋げてよ」


「でもちょっと繋がってきました?」


「うん、繋がってきた気がする」


 やっとコツを掴んだところで剥く皮がなくなってしまった。オレは大仕事を終えたかのように息を吐いた。


「人参は?」


「短冊切り」


「短冊切り……」


 あれか、七夕のやつ。いや、それよりも野菜炒めに入っている人参を思い浮かべて切ってみる。でも待て、この丸い断面をどう長方形に切るのか——ひっくり返したり色々しながら最終形態は長方形になったけれど、その過程で形がまばらになる。突っ込まれなかったので、そのままボールに入れた。


 次は玉ねぎだ。茶色の皮を剥いで半分に切ったまではよかった。根っこを切り落とし、細く切る——と、目に染みて開いていられなくなった。ティッシュで目を拭いて、ハッと思い出す。


 オレは急いで自分の部屋へ行き、水泳で使うゴーグルを持って戻った。それを装着してまた玉ねぎに挑む。

 けれど、すぐさままた目が痛くなって涙が溢れた。


「ゴーグルの中に玉ねぎ成分が!」


 涙が止まらない。どうしようもなくなったオレの横で、ミサキさんが爆笑していた。顔を洗ってなんとか持ち直す。玉ねぎはギブアップして肉を切り、ミサキさんに言われるまま味付けしてやっと野菜炒めが完成した。



 結局、米は炊かないまま野菜炒めだけを綾さんに差し出す。コンロ周りは焼かれたくなかった野菜が脱出して悲劇的に散らばっている。それを見て自分で増やした仕事にうんざりした。


「あ、ハルマキ」


 やって来たハルマキさんを捕まえて、綾さんがスマホを見せる。二人でそれを眺めて大笑いしていた。どうやらオレの料理の様子を撮っていたらしい——けっこう真剣だったのに。



「トムにも送ってやろう」


 動画を見終えると、綾さんが上機嫌でそう言った。ハルマキさんが準備した箸で野菜炒めをつまみ食いした。


「あら、美味しいじゃない」


 真剣に驚いてハルマキさんがオレを見た。だって味付けはミサキさんだし、と言おうとしたオレの横で、ミサキさんが頷く。


「味付けの勘がいいの。芥にも褒めるところあったのね」


「トムに賄い付けろって交渉するか。芥が作れば何にも問題ねぇだろ」


 右手だけで器用にスマホを操作しながら、綾さんがハルマキさんに同意を求めると、ハルマキさんも大きく頷いた。


「芥、動画とか見て勉強したらいいわ。きっと上手くなるわよ」


 ミサキさんがニッコリしてオレを見る——こんなことは初めてだった。ここに来て、初めて。



 意外にもトムさんは賄いの件を承諾した。オレが作ること、という条件付きだったけれど、綾さんやハルマキさんがオレに期待しているようなので悪い気はしない。ミサキさんは引き続き先生役をする条件で賄い付きになった。


 ただ綾さんが動画を見て引き笑いしてるのが気になったけど、綾さんがオレの『初めての料理』で笑っているならよしとしようと思った。雑巾の償いがちょっとでもできたと思おう、だっていつも怒ってる人が笑ってるんだから。



 住み込みの就職先に賄いが追加された。オレのおかげだ。トムさんが承諾した条件はオレが飯を作ること——つまり、料理のスキルアップが必然ということだ。


 これはおちおち掃除なんてしていられない。なんてぽろりと言ったら、トムさんに頭をどつかれた。そこにちょっぴりトムさんの愛情が混っていると、これもそう思っておくことにする。



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