狐の嫁入り

大豆の神

狐の嫁入り

 下校の時刻を告げる鐘が鳴る。オレンジ色の光が差し込む廊下で、私はクラスメイトに声を掛けられた。


「篠田さん、掃除やっといてくれない?私たちこれから行きたいとこあってさ」


 差し出された箒を前に、つい視線を落とす。顔に併せて垂れる三つ編みが、惨めさを増しているような気がした。


「わ、私、掃除当番じゃないから……」


「じゃあ貸しってことで!お願いできないかなー」


 目の前にあるはずの足が、何本にも重なって見え始める。段々と視界が暗く、沈んでいく。



「こーら、勝手なこと言わないの!篠田さん困ってるでしょ」


 不意に現れた明るい声に、沈みかけていた意識が浮上する。顔を上げると、先ほどのふたりの頭に、玉野さんが拳を落としているところだった。


「当番の仕事はきちっとやる、分かった?」


「「ごめんなさーい」」


 ふたりはそう言って教室に戻ると、不慣れな手つきで掃除を始めた。玉野さんはそれを見かねたのか、ふたりの元に駆け寄る。


「あぁもう、全然掃けてないじゃん。ほら、貸して」


「委員長やっさしー」


「からかわないの」


 そうして彼女を中心に集団が出来上がる。私は教室に向かって頭を下げ、その場を後にした。


――――――――

 帰り道、歩きながら本を読むのが私の日課だ。外の開放感が、本の世界への没入感を高めてくれる。危ないことだと分かっているが、あの二宮金治郎もこうして本を読んでいたそうだ。ここは彼に免じて許してほしい。


 今読んでいるのは、玉藻前をモデルにした物語。藻女みくずめと呼ばれた少女が、上皇に仕える女官となり、その生涯を終えるまでを悲恋として描いている。もし、ふたりが同じ種族だったなら、どのような結末を迎えていたのか。そこを考えるのが面白く、何度も読み返している。


「あれ?」


 ポツリと、ページに水滴が落ちる。しかし、空を見ても雲の姿はなかった。鞄に本をしまうと、私は屋根のある場所を探して足取りを早めた。


 幸い、近くに神社があったので、そこで雨を凌ぐことにした。湿った木の匂いが漂う神楽殿に腰を下ろす。神楽殿は、神様に捧げる神楽の舞台だ。巫女さんになれば、私もここで舞うことができるのだろうか。


「でも……」


 水溜まりに映る自分の姿を見て、ため息をつく。私は巫女さんみたいに綺麗でもなければ、華やかさもない。そういう舞台に立つのはきっと……


「こんなとこでどうしたの?」


 頭上から声が降ってきた。声の方に目を向けると、目の前に玉野さんが立っていた。肩まで伸びた黒髪に、赤と白の巫女服。「やっぱり似合っている」そんな場違いな感想を抱く私に、彼女は首を傾げて聞いた。


「私の顔になんか付いてる?」


「ううん、何も付いてないよ。どうして玉野さんは巫女服を着てるの?」


「私、ここで働いてるんだよね。だからこれは、仕事着」


 そう言って、彼女はくるりと回った。彼女の動きと一緒に、白衣の袖や緋袴の裾が、ひらりふわりと舞う。それはちょっとした踊りのように思えて、舞を見ているような気分だった。だが同時に、やっぱり自分には無理だと悟り、心に黒を落としてしまう。


「悩みでもあるの?」


 玉野さんはこういうことに目敏い。今日だって困っている私を助けてくれた。でも、これは誰かに相談して解消する問題じゃない。私自身の問題だ。


「案外、口に出したらスッキリするかもよ」


「うん、でも……」


「まぁまぁそう言わずにさ」


 玉野さんはそう言うと、私に迫ってきた。突然のことに身動きが取れず、押し倒されてしまう。


「ちょっ、玉野さん⁈」


「言ってくれないなら、直接身体に聞くしかないよね」


 彼女のすらりとした指先が、太ももをなぞる。雨に濡れた指は冷たく、思わず声を上げそうになった。


「我慢しなくていいんだよ」


「何、言って……」


 続けて、もう片方の手が私の耳に触れる。耳輪を撫でると、そのまま下へ指を沿わせ、耳朶を弄ぶ。戸惑いや驚きは大きかったが、不思議と嫌な感じはしなかった。耳から離れた手は、三つ編みへ向かった。毛先を止めるヘアゴムを外すと、髪の感触を確かめるかのように指を通す。くすぐったさと心地よさの間のような、未知の感覚が私を襲った。


「話さないなら、この口は使わないよね」


 透き通るような赤茶の瞳に見つめられる。「玉野さんってこんな目の色だったっけ」ふと、そんなことが頭をよぎるが、考えるのも面倒だった。このまま身を任せてしまいたい。私は瞼を閉じ、彼女を受け入れ──



「何やってんの!このエロ狐!」


 情緒に合わない、荒々しい言葉でハッとする。目を開けると、そこには制服姿の玉野さんと巫女服姿の玉野さんがいた。


「玉野さんがふたり……?」


「本物の私はこっちよ」


 制服を着た玉野さんが手を軽く挙げる。そして、巫女服の玉野さんを指差して言った。


「こいつはうちで祀ってる狐なの。時々こうやって化けて、いたずらしてんのよ」


「こいつってひどくない?私一応、神なんだけど」


「神様がそう簡単に人前に現れてどうすんの。っていうか、私の姿で話すのやめてくれない?気持ち悪いんだけど」


 不思議な光景だった。人と狐が他愛のない会話で盛り上がっている。そこに種族の差など無かった。きっとあの物語のふたりも、こうして話をしていたに違いない。


「ふふっ」


 そう思うと、笑みがこぼれた。玉野さんたちは目を丸くして私を見ると、恥ずかしそうに頭を掻いた。表情から動きまで本当にそっくりだ。


「じゃあ私はこれで。楽しかったよ、明美」


 そう言い残し、狐の玉野さんは姿を消した。


――――――――

「なんかごめんね。うちのが迷惑かけちゃって」


「そんなことないよ」


 私は今、玉野さんの家で髪を梳かしてもらっている。この神社は、玉野さんの両親が経営していて、彼女も時々手伝いをしているそうだ。


「でもいやらしいことされてたでしょ。明美、押し倒されてたし」


「あぁ、うん。あれ?玉野さん、今明美って……」


「別に下の名前で呼んだっていいでしょ。あいつだって呼んでたんだし」


「ふふっ、玉野さんって意外と可愛いんだね。学校にいる時は、いつもお姉さんって感じだったから」


 本当はお母さんみたいだと思ってたけど、これは秘密にしておこう。


「あんまからかわないでよ。それと、玉野さんじゃなくて、麻衣」


「え?」


「私の名前だって!私だけ恥ずかしいなんて不公平じゃん。……友達は下の名前で呼び合うもんでしょ」


 小声でポソポソ呟く玉野さんは、いつもとは違う雰囲気で。私だけが知っている姿だと思うと、なぜか胸が高鳴った。


「ありがとう、麻衣ちゃん」


「なんで感謝してんのよ」


「二回も私を助けてくれたから」


「あっそ」


 素っ気ない返事とは裏腹に、彼女の耳は赤く染まっていた。


「ねぇ明美、もっとオシャレしてみない?あんた顔は良いんだし、髪だって綺麗なんだから、磨けば輝くと思うんだよね」


「そんなことないよ。私は麻衣ちゃんみたいに可愛くないし、どんくさいし、それに……」


 褒められ慣れてないからか、否定の言葉が口をついて出てしまう。本当は嬉しいし、輝けるのなら輝きたい。でも、心の内に潜む臆病な私が、それを認められずにいる。


「あのね、明美」


 そんな私を、彼女の声が制する。


「可愛いとか可愛くないとかじゃなくて、自分を磨くか磨かないかなの。明美もやってみたら、きっと自分に自信を持てるはずだよ」


 磨くか磨かないか、その言葉が胸にストンと収まったような気がした。もし、変われるなら。そんな希望が、私の中で芽生え始めた。


――――――――

 そして次の日


「あれって篠田さん?」


 やっぱり変だっただろうか。廊下を歩くだけで周りの視線が痛い。固く縛っていたおさげの三つ編みを、緩くまとめただけの変化。それでも私には、清水の舞台から飛び降りるような覚悟だった。


「お、おはよう」


 勇気を出して挨拶をする。相手はもちろん麻衣ちゃんだ。


「おはよう明美。その髪、似合ってるよ」


 他でもない彼女に褒められた。それが堪らなく嬉しかった。私も変われる、麻衣ちゃんがそれを教えてくれたのだ。

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