幕間2 もうひとつの






 中学の卒業式も無事に終わり、春休みに入った。

 春休みの約三週間、高校の準備をしつつ、多くの時間を一葉の家で過ごした。

 学校がある時は土日くらいしかゆっくり出来ないから、長期休みになると一葉の家にいる時間を長くするのがここ数年の習慣になっていた。

 一葉の家では、二階にある七畳間を自室のように使わせてもらい、そこで勉強なんかをしたり、一葉の薬作りの手伝いなどをして過ごす。


 春休みに入って数日経ったある日、洸に誘われ、はなを連れて春日美術館へ行った。

 春日美術館は晴三郎の友人ありパトロンでもあった洸の先祖、春日秀一が収集したコレクションを所蔵管理し展示している。紫英と、紫英の師であったとされる高邑紫雲の絵画と彫刻の一大コレクションを持っており、それら所蔵作品を基とし、季節やテーマで年に四回ほどの企画展を行う。洸の母の職場である。


 はなは英にしか見えない少女の姿で、紫英の作品は懐かしそうに、それ以外のものも楽しそうに見て回っていたが、一幅の掛軸の前に立つと、それまでとは明らかに違う様子で長く足を止めた。

 春の小花が咲く草むらの中、岩に腰掛けた女性が琵琶を弾いている。伏せられた目は穏やかで、流れるような細い曲線で描かれた指先、天女のような衣、肩にかかった黒髪一本まで優美そのものである。

 ただ、衣や琵琶の細部、女性の肌などほとんど色味がなく、未完成であることがひと目でわかる。綺麗に軸装されているのがどこかちぐはぐな印象を受ける。

『これは……ひとりなのか』

 英を見上げて問うはなの声は、この絵の女性を心配しているように聞こえる。

「この絵のこと、知ってるんだな」

 他の客が近くにいないことを確認して、小声で応える。

 この絵が未完成なのは、《桃花》のように死の直前に描いていたからというわけではない。

 現在の本家が建つよりも前、晴三郎が若い頃の話だ。

 住んでいた小さな家に泥棒が入ったことがあった。

 金目の物を大して見つけることの出来なかった泥棒は、家に残されていたいくつかの絵を持ち出した。その時、作業場にあった描きかけのものまで盗っていったのだ。

 それは、二つ同時に描き進められていた男女の絵だった。

 盗まれた絵のほとんどは所在が明らかになったが、この女性の対の行方は杳として知れぬまま。

 展示されているこの絵も、数年前、偶然にもオークションサイトに出品されているのを英が見つけた。

 全体的に微妙な色合いなうえに、署名がなく作者が判然としないこの絵を出品者は好まなかったようで、二束三文で売りに出されていた。すぐに祖父に連絡し、無事、購入されたのである。

 盗まれた時はまだ作業のための木枠に画面の絹が貼り付けられたままだったが、盗み出した人かその後入手した人が勝手に軸装を施したらしい。

『当然じゃ。盗まれたものらを晴三郎はずっと探しておった。とくにこれと、これの対は取り戻したがっておった……結局、叶わなかったがの』

「そうか……対は未だに行方知れずだ」

 どんな絵だったのか、手がかりは残っている。

 「春日秀一の手記」と呼ばれる資料がある。「時枝紫英はひとならざるものを見た」と記されている非公開の黒革の一冊のノートだ。

 そこに盗み出された作品の詳細が全て記されている。

 「琵琶を弾く女性と横笛を吹く男性。絹本、未完」と。

 春日家も時枝家も、知り合いの古美術商に紫英の絵の噂があったら教えてもらえるよう頼んでおり、実際にそこからいくつか買い戻すことも出来たのだが、「横笛を吹く男性」の情報が齎されたことはこれまで一度もなかった。

 すでに現存していないか、どこかに死蔵されているのか。

 対に関しては諦めるような空気が漂っているのも事実だ。

『連れ合いだったのだ。隣に並ばせてやりたいがの』

 絵のモチーフのことだろうが、それにしてはやけに気にしているようにも感じられた。それほど晴三郎も無念に思っていたのだろうか。

『晴三郎は確信がなかったようじゃが……やはり、そうであったか』

 ぶつぶつと何かを呟きながら、後ろ髪をひかれるように琵琶を弾く女性の前を離れたはなは、美術館を出るまで難しい顔をしていた。





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時枝奇想図譜 涼澤 @suzusawa

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