最終話 永訣

 殿でんの奥深く、薄暗い場所。

 はてが見えないほど長い廊下ろうかが続いている。廊下の両脇には、うすまくが垂れていた。


「はあ、はあ、いや」


 胡琴こきんをかかえたミオは走る。

 『なにか』に追われていた。

 薄暗く冷たい空間を、姿の見えない黒い影のようなものたちが徘徊はいかいしている。闇より深い影はミオに気がつくと、あとをつけてくるのだ。

 怖くて走るが、行くあてなどない。

 析易せきえきとともに安穏あんのんと暮らしていた殿でんに、こんな奴らがいただなんて。

 黒い影はどんどんミオに近づいた。四方しほうをかこまれる。

 ミオは胡琴を抱きしめた。心臓がとまりそうだ。

 影のむこうの壁のほうに、真っ黒な巨大な御簾みすが見えた。

 あれは析易せきえきが言っていた、のぞいてはいけないという御簾みすのことだろうか。ほかにのがれられそうな場所はない。

 ミオは思いきってけだし、御簾の中に転がりこんだ。



 中は暗く、ようすはよく見えなかったが、影はいないような感じがする。

 ミオは安心して胡琴を放り、目をつむってその場に寝ころがった。途端とたんにべつの心配ごとが思いうかぶ。

 あの傷ついた人たちや、ユンは大丈夫だろうか。どうして今までユンのことや、一座のみんなのことを忘れていたのだろう。

 ぽつりと、冷たいしずくがミオの鼻先にあたった。上から降ってきた。鉄くさいような、生ぐさいような、いやなにおい。

 上半身を起こし、目をこらして天井を見上げる。高い高い天井には、『なにか』のたばが、無数にかかっていた。

 白くて細い、いびつなぼうのようなそれ。

 しずくは棒を伝い、たえまなく下へ落ちた。

 ミオは凍りついた。

 あれは、人の足じゃないのか?


御簾みすには入るなと言ったはずだ」


 座りこんだまま動けないミオの前に、やさしい笑みを浮かべた析易が立っていた。背後はいごには、得体のしれない影たちがうごめいている。


「あの人たち、析易せきえきがやったの?」


 影が二人のまわりをとりかこむ。析易は笑顔のまま、天井を見あげた。


「あの者たちはわたしを理解しなかった。みなぞくにまみれ、わたしが見せるまぼろしから快楽だけをむさぼろうとした。そして最後にはわたしを化け物とそしりうらぎった。だから……」

「だからって、殺すことはないじゃないか。そうだ、下の人たちは助けてくれたの?」

「あやつらの中にわたしを理解せず裏切る者がいれば、わたしの心と石竜殿せきりゅうでんがよごれる」

「見殺しにしたっていうの? あたしのことは助けてくれたじゃないか」

「ミオはほかとはちがう。きみだけはわたしを理解してくれた」


 析易は首の紅玉こうぎょくをはずし、かかげた。


「御簾に入ったことも今回だけはゆるそう。さあ、二人だけですごした石竜殿せきりゅうでんを思いなさい。そうすれば上にもどれる」


 紅玉の、血のような輝きが次第に強くなった。ミオは首を左右にふる。


「悪いけどあたしにはわかんない。あたしは自分がよごれないためなら、なんでもしていいだなんて思わない」


 析易から笑顔が消え失せた。顔をゆがませる。


「ミオ、なぜだ」

「あんたは化け物だ。善人のかわをかぶった悪党だよ。あんたとくらすくらいなら、ひとりでいたほうがマシだ」

「ちがう! ミオ、石竜殿を思うんだ。わたしを独りにするな!」


 必死に言われても、気持ちは変わらなかった。脳裏のうりには、ユンの屈託くったくない笑顔がくっきりと浮かぶ。


「ミオ!」


 析易がさけぶと同時に、空間すべてが真紅しんくの光につつまれ、影がふきとばされた。

 目がくらむ。まぶたをとじる寸前、床に放られたミオの胡琴こきんのそばに立つ、奇怪きかいな化け物の姿を見た。ボコボコとした緑の皮膚ひふに、ぎょろりとした目。巨大な蜥蜴とかげのような生物。




「兄貴。ユンの兄貴。起きておくれよ」


 ミオは血の池に半分顔をしずめ、死んだように倒れているユンの体を必死にゆらした。ユンは口や鼻に入った血をはきだし、目をさました。


「……うっ、げえ。ん、ミオ? なんでここに。あの蜥蜴とかげの化け物につかまってたんじゃないのか」

「蜥蜴か。蜥蜴でもよかったのに……」

「あ? なんだって?」

「ううん、なんでもない。それよりも早いとこ出口を探して逃げよう。外にいた人たちも心配だしさ」

「あ、ああ」


 ミオはユンの腕をつかみ、わき目もふらず血の池を駆けだした。

 どこからか胡琴の音がきこえた。かなしむような、おしむような、さみしげな音色がミオをよぶようにひびいても、足がとまることはない。

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