第3話 析易の世界

 石竜殿せきりゅうでんで、ミオは極上ごくじょうの暮らしを楽しんだ。

 毎日まいにち絹衣きぬごろもを着て、真珠をとかした湯にはいり、かすみの綿菓子を食べ、析易せきえきと日がな一日いちにち胡琴こきんを弾いた。

 そのあいまに、析易せきえき紅玉こうぎょくを使い、ミオをさまざまな場所に連れだした。ときにきりがかった山脈の、黄金の花が咲く花畑に。ときに海中の紅色の珊瑚さんごの城に。ときにははちきれんばかりの無数の銀の星がかがやく砂漠に。

 新鮮で感動的な光景を見るたび、ミオは大いに感動した。その横で、いつも析易が穏やかな笑みをたたえ、しずかにたたずんでいた。




 析易の紅玉の力でおりたった、夜の川でのこと。

 川の両脇の岸には、桜や梅の花がさきみだれている。

 水に浮かぶ小舟こぶねの上で、ミオは胡琴をだき、小舟の縁によりかかっていた。酔ってうとうとしていた。

 舟底に置かれた、臙脂色えんじいろわんに、ひらりと桜の花びらが落ちる。中の酒に波紋はもんが広がった。ミオは酒を花びらごと一息に飲みほした。

 向かいに、析易が座っている。赤く光る、鳥の卵のような紅玉を首にかけていた。胡琴を弾きながら、ミオのようすを見て笑う。

 暖かい風が木々の花をちらせた。花びらが流れる川を、小舟は漕がずとも勝手に進む。


「ね、析易はなぜ色々な場所に行けるの?」


 うとうとしながらたずねた。

 彼と一緒にいると楽しかったので、すぐにうちとけた。はじめのころの堅苦しさは嘘のように、口調も砕けるようになった。

 析易は胡琴を弾きながら答える。


「ミオよ、わたしは色々な場所に行けるわけではない。この首の紅玉を通し、わたしの心の風景を見ているだけだ」


 ミオは別段おどろかなかった。仙人の析易ならば、何ができても不思議ではない。


「ふーん。それじゃあ、今あたしは析易の心の中にいるってわけか。前から思っていたんだけれど、どうして析易の心には人っ子一人いないの? 石竜殿もそうだけど」


 胡琴が急にやんだ。水面に浮かぶ花びらの一枚が、舟の横を通りすぎてから、彼はこわばった表情で口火をきった。


「わたしは人を必要としていない。仙人になる前も後も、人はわたしを理解しなかった。わたしにあるのは、長い時間の中で一人鍛錬した胡琴だけ」

「あたしは?」

「ミオはちがう。ミオだけはわたしを理解してくれている。わたしの心にこれほど感じいってくれたのはミオが初めてだ」

「ふふふ」

「わたしの美しいと思うものをミオは美しいと思ってくれている。それどころか、わたしの世界をより美しくしてくれている。ともに胡琴も弾ける」

「やっぱり同じだよ、析易とあたしは」


 酒に酔ったミオは、なにも考えず体の向きを変え、胡琴を抱きしめながら析易によりかかった。析易はじっとしたまま、よけたり押しのけたりしなかった。


「あたしのことを分かってくれるのは析易だけ。故郷にいたころも一座に居た頃も、どこにもあたしの居場所はなかったんだ」


 ミオは胡琴をきつく抱きしめ、析易に体を押しつけた。


「あたしはみんなとちがう。みんなができることがあたしにはできない。あたしは誰かといても結局いつも独り。けど析易だけはちがう。あんたといればあたしは独りじゃない」



 析易はそのままの姿勢で、眠ろうとするミオの背中に腕をまわした。袖からのぞく二の腕は、ボコボコの緑色の皮膚でおおわれている。

 強風に煽られ、桜の花びらが一段と激しくふぶいた。




 あくる日の湯浴みのあと。

 ミオはふきさらしの欄干らんかんに腰かけ、胡琴を弾いていた。景色をながめる。白雲におおわれた、新緑の山々。

 雲の乳白色が好きで、よくながめていた。

 殿の奥のほうから、かすかに美しい胡琴がきこえる。析易が弾いているのだ。先日のことを思い出し、ミオは顔から火がでそうになった。

 このあいだの花見では、酔いにまかせてずいぶんと大胆なことをしてしまった。析易は何事もなかったかのように接してくれている。

 仙人の析易が、自分のような身分の低い小娘を、本気で相手にするはずがないのに。

 だが、もし彼と思いが通じあったら?

 それならばと、ミオは思いをふくらませた。

 析易となら、どうなったって構わない。たとえ彼がどんな存在であっても、彼以外、自分にはいらない。


「おーい」


 不意に、下からどこかで聞きおぼえのある声がした。析易のものよりもずっと低い男の声。

 その声は、あまりになつかしかった。胡琴を弾く手を止め、見下ろす。


「おーい、そこのご婦人。こっちに来て手を貸してくれよ。……ん? おめぇ、ミオか?」


 さけびながらこちらに手をふっていたのは、初めて見る男ではない。析易より体格がよくて明るい、ミオの兄貴分、ユンだ。


「ユンの兄貴!」

「ミオ! 生きてたのか。今までどこにいたんだよ。ずっと探してたんだぞ」

「心配かけてごめんな、兄貴。じつは……。おい、その人たち、どうしたんだよ」


 思いがけない再会に喜ぶミオはしかし、ユンのまわりの光景に絶句した。

 傷つき疲れきった老若男女が、地面に座るか、あるいは転がるかしていた。よく見れば、ユンも明らかに以前よりやせ、身体中からだじゅう生傷なまきずだらけだ。


「みんな争いで国を追われた連中だ。死にかけていて声も出せない」

「一座のみんなは?」

「みんなは、戦いで……」

「そんな」

「ミオ、おりてきて手当を手伝ってくれないか。ついでに食べ物も」

「わかった。少し待っていておくれ。ここの主にも声をかけてくるから」

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