第3話 析易の世界
そのあいまに、
新鮮で感動的な光景を見るたび、ミオは大いに感動した。その横で、いつも析易が穏やかな笑みをたたえ、しずかにたたずんでいた。
析易の紅玉の力でおりたった、夜の川でのこと。
川の両脇の岸には、桜や梅の花がさきみだれている。
水に浮かぶ
舟底に置かれた、
向かいに、析易が座っている。赤く光る、鳥の卵のような紅玉を首にかけていた。胡琴を弾きながら、ミオのようすを見て笑う。
暖かい風が木々の花をちらせた。花びらが流れる川を、小舟は漕がずとも勝手に進む。
「ね、析易はなぜ色々な場所に行けるの?」
うとうとしながらたずねた。
彼と一緒にいると楽しかったので、すぐにうちとけた。はじめのころの堅苦しさは嘘のように、口調も砕けるようになった。
析易は胡琴を弾きながら答える。
「ミオよ、わたしは色々な場所に行けるわけではない。この首の紅玉を通し、わたしの心の風景を見ているだけだ」
ミオは別段おどろかなかった。仙人の析易ならば、何ができても不思議ではない。
「ふーん。それじゃあ、今あたしは析易の心の中にいるってわけか。前から思っていたんだけれど、どうして析易の心には人っ子一人いないの? 石竜殿もそうだけど」
胡琴が急にやんだ。水面に浮かぶ花びらの一枚が、舟の横を通りすぎてから、彼はこわばった表情で口火をきった。
「わたしは人を必要としていない。仙人になる前も後も、人はわたしを理解しなかった。わたしにあるのは、長い時間の中で一人鍛錬した胡琴だけ」
「あたしは?」
「ミオはちがう。ミオだけはわたしを理解してくれている。わたしの心にこれほど感じいってくれたのはミオが初めてだ」
「ふふふ」
「わたしの美しいと思うものをミオは美しいと思ってくれている。それどころか、わたしの世界をより美しくしてくれている。ともに胡琴も弾ける」
「やっぱり同じだよ、析易とあたしは」
酒に酔ったミオは、なにも考えず体の向きを変え、胡琴を抱きしめながら析易によりかかった。析易はじっとしたまま、よけたり押しのけたりしなかった。
「あたしのことを分かってくれるのは析易だけ。故郷にいたころも一座に居た頃も、どこにもあたしの居場所はなかったんだ」
ミオは胡琴をきつく抱きしめ、析易に体を押しつけた。
「あたしはみんなとちがう。みんなができることがあたしにはできない。あたしは誰かといても結局いつも独り。けど析易だけはちがう。あんたといればあたしは独りじゃない」
析易はそのままの姿勢で、眠ろうとするミオの背中に腕をまわした。袖からのぞく二の腕は、ボコボコの緑色の皮膚でおおわれている。
強風に煽られ、桜の花びらが一段と激しくふぶいた。
あくる日の湯浴みのあと。
ミオはふきさらしの
雲の乳白色が好きで、よくながめていた。
殿の奥のほうから、かすかに美しい胡琴がきこえる。析易が弾いているのだ。先日のことを思い出し、ミオは顔から火がでそうになった。
このあいだの花見では、酔いにまかせてずいぶんと大胆なことをしてしまった。析易は何事もなかったかのように接してくれている。
仙人の析易が、自分のような身分の低い小娘を、本気で相手にするはずがないのに。
だが、もし彼と思いが通じあったら?
それならばと、ミオは思いをふくらませた。
析易となら、どうなったって構わない。たとえ彼がどんな存在であっても、彼以外、自分にはいらない。
「おーい」
不意に、下からどこかで聞きおぼえのある声がした。析易のものよりもずっと低い男の声。
その声は、あまりになつかしかった。胡琴を弾く手を止め、見下ろす。
「おーい、そこのご婦人。こっちに来て手を貸してくれよ。……ん? おめぇ、ミオか?」
さけびながらこちらに手をふっていたのは、初めて見る男ではない。析易より体格がよくて明るい、ミオの兄貴分、ユンだ。
「ユンの兄貴!」
「ミオ! 生きてたのか。今までどこにいたんだよ。ずっと探してたんだぞ」
「心配かけてごめんな、兄貴。じつは……。おい、その人たち、どうしたんだよ」
思いがけない再会に喜ぶミオはしかし、ユンのまわりの光景に絶句した。
傷つき疲れきった老若男女が、地面に座るか、あるいは転がるかしていた。よく見れば、ユンも明らかに以前よりやせ、
「みんな争いで国を追われた連中だ。死にかけていて声も出せない」
「一座のみんなは?」
「みんなは、戦いで……」
「そんな」
「ミオ、おりてきて手当を手伝ってくれないか。ついでに食べ物も」
「わかった。少し待っていておくれ。ここの主にも声をかけてくるから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。