第2話 山の仙人

 全身が、甘いにおいの花につつまれているようだった。

 身体からだには、冷たい雨でも、硬い石でも、いびつな化け物の手でもない、やわらかく心地よい布があたっている。

 ミオはゆっくりとまぶたをあけた。

 天井に彫られた、花や星の模様が目に入った。首を横にかたむけると、白い薄紗がたれている。

 どうやら今まで、この天蓋てんがいのついた寝台で眠っていたようだ。ひたいを手で押さえ、起きあがる。


「どこ、ここ。……あれ?」


 身体からだにあたる服の感触がおかしい。おそるおそる下を見た。

 芸の披露ひろうのときに着る、金ぴかのごわごわした上着でも、ましてや普段着の粗末な麻布あさぬのでもない。

 薄紅色のすべすべとした絹の寝巻きを着ていた。

 よくよく見たりさわったりすると、寝台の布も、垂れる薄紗も、甘い香りがたきこめられた絹織物だ。

 ミオはおそるおそる薄紗をめくり、寝台からおりた。

 部屋の正面は壁も扉のなく、ふきさらしで、欄干らんかんがもうけられた廊下があった。丸い木の柱のあいだから、白雲のかぶさる深緑の山々の風景が見える。

 ここは、山の斜面にせりだした寺のような建物の一室だ。

 夢かと思いあぜんとしていると、どこからか胡琴こきんの音がした。あの洞窟でミオがきいた胡琴にちがいない。

 ミオは音のほうをめざし、ふきさらしの廊下をふらふらと歩いた。

 途中、いくつものやわらかいまくのたれた部屋を通りすぎ、階段をのぼった。



 ようやくたどりついたのは、四方に壁のない、高すぎる天井の、ひときわ広い部屋だった。

 部屋の中心には四角い壇がある。その上では、小柄で身なりのいい若い男が、あぐらをかき、胡琴を弾いていた。鳥の卵のような紅玉こうぎょくの首飾りを、首にかけている。


「あんた、それ……。あのときの弾き手はあんただったのかい?」


 ミオが声をかけると、若い男は手をとめ、壇からとびおりた。頭上で束ねた髪がはためき、紅玉こうぎょくの首かざりが重たげにゆれる。

 若い男は顔に笑みをはりつけ、ミオに近づいた。ミオはあとじさる。


「あんた、誰? ここはどこ?」

「わたしはここ、石竜殿せきりゅうでんに住まう仙人の析易せきえきです」


 男にしては少し高めの声。

 ミオはおどろき、たずねかえした。


「仙人と、仙人の家だって? ばかな。あたしはさっきまで洞窟どうくつにいて……」


 記憶がはっきりとしてくる。


「そうだ、おっかない化け物と、ユンの兄貴がいた。兄貴、きっとあたしを追ってきて……。あんた、兄貴がどうなったか知らない?」


 若い男、析易せきえきは、笑顔のまま答えた。


「はて、あの洞窟は邪神じゃしんのほこら。わたしが邪神の魂をしずめに胡琴を弾いていたら、思いもかけずあなたと楽しい連奏れんそうができた」

「そうだったの?」

「かと思うと、あなたは邪神におどろき気を失ってしまった。邪神はぶじにしずまり、わたしは大事のないよう、石竜殿に連れて介抱してさしあげた」

「兄貴は?」

「お仲間の男は邪神におどろき、一目散に逃げ去ったが。その後は知りませぬ」

「そうか。助けてくれてありがとう。それにしても兄貴、大丈夫だったかな」 


 心配に思い、着なれない絹衣のえりをにぎる。析易は一瞬表情をけわしくした。

 ミオはたじろいだ。なにかまずいことを言ってしまったのか。

 彼はすぐにほほえみ、やさしい声でつづけた。


「どうやらずいぶんおつかれのようだ。よければしばらくはここにとどまり、身体を休めてはいかがか」

「そんな。析易どのにこれ以上迷惑はかけられないよ」

「迷惑ではない。ひさしぶりに胡琴の心得のある方が来たのだ。わたしも独りでいるのも寂しい」


 析易のすんだ瞳を見つめた。

 この人も、独りなのか。


「滞在されるとよい。そして、よければわたしと友になってはくれまいか?」


 通じ合えるものがあるように思えた。

 ミオは緩慢かんまんにうなずいた。

 析易は破顔はがおし、ミオの手をとったかと思うと、ふきさらしの外のほうにかけだした。

 ミオはまたしてもおどろいた。


「なんだよ」

「友よ。さっそくみはらしのよい場所にいこう。きっと気分もよくなる」


 析易の首の、ゆれる紅玉がぼんやりとかがやき、真紅しんくがました。


「行くってどこに……。うわ」


 析易がひとっとびすると、二人の体はふわりと宙にういた。強い風が眼球に当たり、ミオはギュッと目をとじる。


「目をおあけ」


 うながされて目をあけると、陶然とうぜんとした。

 高山の頂上にいた。

 うぐいすの鳴く、山吹色やまぶきいろの空の下。むこうの新緑の山々の斜面を、満開の桃や桜の花がほんのり紅色に色づけている。

 ぬくい風はほのかに甘い香りをのせ、ミオの髪と絹衣きぬごろもをまきあげた。


「気持ちいい。あはははは」



 春の高揚感こうようかんにつつまれ、くるくるまわり始めたミオ。

 析易は心からの笑みをうかべながめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る