師匠と弟子が終わるまで

七草はるの

沙耶と夏帆の物語

「師匠って、呼んでいい?」

 これは私が夏帆にかけた、最初の一言だった。


 中学二年生の夏休み。

 本来ならば学生が羽根を伸ばすための幸せな長期休暇であるはずなのだが、私こと山城沙耶はその日だけは朝から気分が落ちていた。

 休暇前最後のプールの授業。その日のテストで二十五メートルを泳ぎきれなかった者は、何故か特別補習という名目の水泳練習日に貴重な休みを割かなければならなくなってしまうのだ。こんなことをわざわざ語るということは、当時の私がそれに頭を悩ませていたことは言うまでもなく分かってもらえると思う。

 泳ぐのがというよりも運動全般が不得手な私にとって、一番嫌なのは休みに運動をしなければならないことではない。運動が出来ないのを周りに見られるのが何より辛いのだ。

 勿論特別補習に来ている生徒なんてのは、総じて泳ぐのが苦手な傾向にある。それでも何日か続けていくうちに、飲み込みの早い者や元々ある程度の運動神経の備わっている者は目標を達成して特別補習から抜けていくのだ。

 最終日に残っている生徒の惨めさといったらない。昨日までいた少し話せる子が明日から来ない。ただそれだけでもやる気が削がれていく。うおお、昨年の記憶が。

 その記憶が災いし、私は初日から既にテンションが死にかけているわけだ。プールサイドでバタ足をしている今この瞬間にも帰りたい気持ちで溢れかえっていた。

 てか泳ぐうちにどんどん沈んでいくのが課題の私がすべきことは果たして本当にバタ足なのか?

 何一つ分からんけど謎の現象によりプールの水漏れ出さないかなあ。天気もそこまで良くないし、水温少し低いんじゃないだろうか。止まらない不満ラッシュ。

「よおーし。特別補習組。今日のテスト始めるぞー」

 ピピッと体育教師が鳴らす笛に嫌々集まる生徒達。論ずるべくもなく私もその一人だ。

 プールサイドにいるのは私を含めて十二名の特別補習生徒。それから空いた二つのレーンで練習をしている水泳部の方々だ。彼らはさぞ上手く泳げるのだろう。のろまな私達のことを亀とでも思ってるかもしれない。いや、亀は泳ぐの速いか。

「じゃあ出席番号早い順な。まず及川」

「はーい」

 どうせ無理だ、と顔に書いてある男子がスタート位置に着いた。滅茶苦茶気持ち分かる。だが私は苗字のせいで十中八九大トリだぞ。私よりマシなんじゃないだろうか。……初めも遠慮したいけどね。

 そんなことを考えているうちに、どんどんと順番が近づいてくる。今日は多分三人くらい合格して残りは九人かそこらになるだろう。そして最終日には……。先の見えたチキンレースほどやりたくないものもない。

「やぁだなあ」

 はあ、と大きな溜息をついたその時だ。

 ふと私の耳元で声が聞こえた。

「息継ぎの時、もう無理ってくらい首曲げてみ」

「……えっ?」

 すれ違いざまに水泳部の女子が私に耳打ちしてきたのだ。パッと振り返ると一瞬だけ目を合わせウインクする女生徒が目に入った。

 クールな雰囲気に切長の吊り目。普段の内巻きセミロングの後ろ髪は水泳キャップの中に纏められているようだが、羨ましいスラっとした身体つきは見間違えようもない。

 徳永夏帆。二つ隣のクラスの女子だ。

 クラスの中心部人物ではないものの悪い噂は聞いたことのないスポーツ女子といった印象で、軽音部と仲のいい帰宅部の私みたいなタイプはあまり関わり合うことが少ない。

 なんならほとんど会話を交わしたことがないんじゃないだろうか。

 そんな女子から突然声をかけられたことにびっくりして、まともな返事が出来ないまま彼女を見つめていると、突然私の名前が呼ばれた。

「山城ー。聞いてんのかー」

「はい! なんでしょう!」

「なんでしょうじゃないだろ。お前の番だ」

 そうだった。特別補習のテスト待ちだった。

「あ、すいません。すぐ準備します」

「ボーッとしてるってことは余裕アリだな?」

 余計なこと言うな。周りの目が集まったらどうしてくれる。

 プールの縁に腰掛け、脚からゆっくりと水に入る。そして背中を壁につけて、あとは合図を待つだけだ。

 早く楽にしてくれ。

 鋭い笛が鳴り、私は壁を思い切り蹴った。

 身体が水平になっていき、ケノビで稼げるギリギリの所まで進んだ。

 もっと息を吸っておけばよかったかも。

 後は出来る限りの醜い抵抗だ。教本で読んだ通りに手を回し、脚をバタつかせる。どれくらい進んだかなんてわからない。恐らく全体の三分の一くらいまで来ただろう。

 でももう限界だ。結局いつかは息を吸わなければならなくなる。

 こうなってはもうおしまい。私は息継ぎをしようとしても空気が吸えず、結局鼻に水が入って立ち止まってしまう。

 明日も特別補習かあ……。

 諦めかけた瞬間、先程のアドバイスが脳裏をよぎった。

 もう無理ってくらい、首を曲げる。

 そんなことしたら足が床に着いてしまわないか?

 ええい、一か八かだ。

「っぷはぁ」

 刹那の間、音が鮮明になり、肺の中に空気が流れ込んでくる。

 足は……着いてない。

 嘘。私泳げてる?

 三回手を回し、再度顔を上げてみる。

「っぷはぁ」

 水泳グラス越しに地上の景色が覗く。

 手は水を掻き、脚は水を蹴り、顔を上げれば大量の酸素が身体に届く。

「っはぁ、っはぁ」

 泳げてる!

 どこに進んでいるかも明瞭に判断出来る。

「痛ぁ!」

 不意に何かに頭を強打した。

 思わず足をついて立ち上がると、プールサイドの上から手を伸ばす影があった。

「やるじゃん」

 徳永、さん。

 差し伸べられた手を無視するわけにもいかず、照れ臭く感じながらもそれを握ると、勢いよくプールサイドへと引き上げてくれた。

「山城お! お前やるじゃないか!」

 先生がにこやかに近づいてくると、徳永さんはにっと笑って水泳部がストレッチしているところに戻っていく。

「あっ、待って!」

 気付いた時には呼び止めていた。

 何か言わなくちゃいけない。

 そういう言葉にしづらい感情が押し寄せてきた無意識の行為だった。

「何?」

 徳永さんは問う。

 いつまでも待ってくれそうな空気だが、そうはいかない。何を言えばいいのか私にも分からない。そんな混乱状態の口から出た言葉は、なんとも滑稽なものだった。

「し、師匠って、呼んでいい?」

 束の間の無言。何言ってんだ私。

 すると沈黙を吹き飛ばすように徳永さんが笑い出した。

「あははははは! いいよ。なら私は弟子と呼ばせてもらおう」

 そう言って徳永さんは、水泳部の中に戻っていった。

 私はそれをどうするでもなく眺め続けていた。

 次の日、風邪を引くくらいには。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


 私は夏休み明けの日、水泳部に入部した。

 うん。友達には勿論、師匠にも驚かれた。

 そりゃそうだよね。私も私みたいな奴が急に運動部に入るって言い出したら、何があったの? って思うもん。

 でもしょうがないじゃん。

 あの日の体験が、私の中では魔法のように思えちゃったんだから。

 少し前までは放課後はショッピングにカラオケにだった私は、毎日遅くまで学校のプールで泳ぐようになった。

 そして師匠は関東大会二位の、結構すごい人なのだということを後から知った。泳ぐの上手いとは知ってたけど、それほどとは驚きだ。そんな人にご教授頂けたんだから、感謝しなくちゃね。

「師匠。バタフライ意味不明なんだけど」

「むずいよね。私も最初は暴れてるだけだった」

「私のバタフライ、今何点くらい?」

「んー、弟子はねー。二十九点」

「赤点じゃん!」

 師匠はいざ話してみると、想像以上に気さくで優しかった。加えて質問したら返してくれるし、頼んでない時にアドバイスはしない、しっかりと割り切った考え方をしている人だった。

 私としてはそこが少し嬉しかったりもした。

 そして中学三年生の間も一緒に水泳をやり、私は師匠の大会の応援に行き、今まで以上に水泳にのめり込んだ。

 あの舞台で師匠と泳げる人が羨ましい。

 そう思った。

 そして高校生になった私は師匠とは別の学校に進学したものの、毎日毎日水泳の練習を続けていき。

 いつしか私の中の感情は、師匠に教わりたいから、師匠と一緒に泳ぎたいに変わっていった。

 え? 今の私は何をしているのかって?

 関東水泳競技大会自由型決勝の舞台に立っている。

 私だって信じられないよ。三年前までは水に入ることすら拒んでいた私が、今や学校のエースを張ってるんだから。

 ここまで来れた理由は一つじゃない。

 水泳は楽しいし、部内の友達も良い子ばかりだ。でも一番の理由は執念じみた夢にある。

「久しぶり。我が弟子よ」

 後ろから声をかけられる。

 今回は振り向くまでもない。

「お待たせ。師匠」

 真横に並んだ影は最後に見た時よりスラリとしていて美しい。私より背は高いが、私の方が胸は少し大きいかな? なんて。

 ピリピリした空気と煌めく水面。

 迫る師弟対決に武者震いがした。

 放送で各々飛び込みの準備体制に入るよう指示が飛び、参加者全員が開始の合図に身構える。

 ピッ。

 鋭く短い笛の音。

 それと同時に、八つの水飛沫が上がった。

 泳ぐ。泳ぐ。泳ぐ。

 出来る限りのスピードで二十五メートルを泳ぎ切り、折り返し地点でターンをする。

 相当飛ばしてきたはずなのに、全くと言っていいほど離れない。それどころか、前を行かんとする者がいるのを波で感じる。

 ターンした時に一瞬だけ映る師匠の顔は、笑っているように見えた。

 私もだよ。師匠。

 楽しいよね。

 ドキドキするよね。

 終わらないでほしいよね。

 絶対に負けたくないよね。

「っぷはぁ」

 師匠。今でも忘れてないよ。

 無理かもってくらい首曲げて。

 折れそうってくらい水を掻いて。

 千切れるかもってくらい脚動かして。

 それでも諦めない方法。

「っぷはぁ」

 あの時のこと、思い出すんだよね。

 初めて泳げた時のこと。

 タイムの縮められたあの日。

 悔しくて枯れるほど泣いた夜。

 そして、思い描くんだよね。

「っぷはぁ!」

 自分の勝っている姿を。

 大切な人と笑い合っている姿を。

 貴女と名前を呼び合う夢にまで見たあの日を!

 届け!

「っはぁ! っはぁ! っはぁ!」

 無我夢中で壁を叩いた私は、苦しい息を整える暇もなく水泳グラスを外して左右を見る。

 するとすぐにパシンと壁を叩く音と共に顔をこちらに向ける影が見えた。

 向こうも息は絶え絶えだが、私と同じようにグラスを外した。

「あー! 負けた!」

 師匠はとてつもなく悔しそうで、でも心の底から気持ち良さそうに笑った。

「…………師匠って、呼んでいい?」

 はは。何を言ってるんだ。

「駄目」

 私は貴女の師匠なんかじゃない。

 正真正銘、永遠のライバルだ。

「沙耶って呼んで。夏帆」

 三年前から呼びたかった名前。

 やっと言えたよ、師匠。

「分かった。よろしく。沙耶」

 にっと笑う夏帆の拳に自分の拳をコツンと当てる。

 師匠と弟子の話はこれでおしまい。

 これから描かれるのは夏帆と沙耶の物語だ。

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