便座ジャック

いずも

便座ムウェア

 彼はご機嫌だった。

 給料日を迎え、金銭的にも余裕が生まれていつもよりちょっとだけ豪華なランチでも洒落込む部下の真似をしようと、万年デスクでカップ麺スタイルだった昼食からオサラバした。

 加減のわからないビュッフェを食べすぎ、職場に戻る前に催したので営業帰りにいつも用を足すためだけに立ち寄るビルのトイレ、その一室に篭もっていた。



「くっそぉ~、俺もいつかはこんな一流企業が入るテナントで働きてぇなぁ……ん、電話か。くっ、もう、ちょい」

 扉裏のフックに掛けておいた上着からスマホを取り出し秒で出る。

 もしもクライアントであれば待たせるわけにはいかない。彼はそういう男であった。



「はい、もしもし」

「小野田かち……小野田さん。落ち着いて聞いてください」

 電話口の声はくぐもっていて個人を特定できない。いや、むしろ意図的に隠している。

 小野田の第六感が冴え渡る。これは……嫌な予感がすると。



「あなたは今、スクウェアビルの二階トイレの一番奥の個室に居ますね」

「え、ええ」

 個室の場所までぴたりと一致している。



「給料日で金銭的な余裕が生まれて「今日は豪華なランチじゃい!」と意気揚々とビュッフェに出かけ、元を取らねば損だとばかりに食べまくって戻る道中でトイレに行きたくなって人気が少なく穴場のトイレスポットだと普段から豪語している二階トイレの一番奥で用を足している。そうですね」

「なっ、どうしてそこまで知っている!?」



「ククク……。その部屋のウォシュレットはこちらが完全に掌握しました。その便座はすでにハッキングされています」

「な、なんだって!? まさか、このウォシュレットには便座ムウェアが仕掛けられていたのか!」

 ランサムウェアというサイバー攻撃がある。その便座版である。



「ええ、苦労しましたよ。しかし私ほどの便座ハッカーにもなれば解けないセキュリティはない。溶けない紙はありますがねぇ!」

「そ、そんなことが現実的に可能なものか!」

 小野田から冷や汗が零れる。ついでに残尿も零れる。



「ふふ、まあ疑うのも無理はない。ではこうしましょう……」

「なんだ? ん、んんっ、あつっ! 熱っつ! 燃えるようにお尻が痛い!」

 彼は自律神経を疑った。だが残念ながら体温調節機能は正常だった。



「便座の温度を65度まで上げてやりました。どうです? 温泉卵の気分は」

「馬鹿なっ、本当にハックされている……俺が、俺自身が温泉卵になるっ……」

 温泉卵を作る適温は65~70度と言われている。



「あなたを温泉卵にするつもりはないので元に戻しましょう。これで信じてもらえましたね」

「ふう、良かった……お前、一体何者だ。何が……目的だ」

 小野田はゆで卵は完熟派だった。



「ふふ、どうしましょうねぇ。全国のウォシュレットと同期させてしまいましょうか。いつウォシュレットが飛び出すかわからない恐怖に怯えてもらいましょう」

「や、やめろ! もしも出力最大でウォシュレットを喰らったりしたらムスコにまで危害が及んでしまう! それに最弱では圧倒的に物足りない。2だ、2目盛りの強さがベストな強さなんだ!」



「もしくはボタンを押した時のウォシュレットが出る確率をびっ○らポンが当たる確率に変えてしまいましょうか」

「や、やめろ! あれは絶対1/5以下の確率だ! しかも欲しい時に来なくていらないけど何となく実施した時に限って当たって荷物になるだけの悪魔の装置だ! くそっ、このままでは猿の破壊実験の猿にされてしまう。ボタンを押し続けて水を待つだけの存在に成り下がってしまうじゃないか!」

 何か打つ手立てはないか。文字通り考える人のポーズで思案する。再び残尿が漏れる。



「ククク……もしも外に出て助けを求めようなどと思わないことですね。あなたが便座から離れ過ぎたら時限ウォシュレットがボンッ! だ。御柱のように天高く舞い上がるウォシュレットが上の階の便器を突き抜ける」

「くっ、俺が人質になることで上の階のトイレの安全は確保されるってわけか……」

 舌打ちしながら丁寧に畳んだ服に目をやる。



「良いんですよ、そのお尻を上げて、そこに設置されているトイレットペーパーでお尻を拭いても、ねぇ!」

「くっ、お前……わかってて言ってるな。俺は痔持ちだ……一度ウォシュレットの素晴らしさを知ってしまったらもう戻れない……魔の魅力に取り憑かれたウォシュレッターなんだよ……頼む、何とか助けてくれ……」

 悔しくて拳で膝を叩く。ムスコが寂しそうに揺れる。



「いやぁ、無様ですよ。その失態、ぜひとも職場の皆様にも見せたいですねぇ。まさか全裸で便座に腰掛け、便座ハッカーに許しを請うだなんてね!」

「お、お前、どうして俺が全裸だと知っている……!? 確かに俺はトイレに入る時は全裸でないと落ち着けないが、普段はひた隠しにしている。家族にすら明かしていない秘密だというのに……!」

 そこで再び彼の第六感が冴え渡る。

 そう、この秘密を知るのはごく限られた人物……それも、彼に非常に親しい人物。

 一か八か、賭けに出ることにした。



「ここでビルの管理室に異常をお知らせして警備員を突入させたら面白くなりそうじゃないですか。果たして全裸のあなたを見て彼らはどんな態度を取るでしょうねぇ……」

「くっ……ああそうだ、ところで楠本。お前今日は午後から先方と打ち合わせがあったんじゃないのか」

「ああそれは別日にするようリスケを組んだので……はっ!?」

「――やはり、お前だったか」

 彼の読みは当たっていた。

 同じ職場の部下、それも隣のデスクの楠本が犯人だったのだ。



「バレてしまっては仕方ない。しかし課長がそこから動け――なっ、何者だ!」

 電話の向こうが騒がしくなる。

 スマホが床に落ちる音がしてしばらく後、誰かが拾い上げる。



「大丈夫ですか、小野田さん。警察です。この辺りで便座がハッキングされる被害が出ていたのでずっと犯人が肛門を、いえ尻尾を出すのを待っていました。ターゲットがあなただと確証が持てず、事件を引き起こしてしまって申し訳ありません」

「いえ。それじゃあ、俺は助かった……?」

「はい、遠隔操作可能な時限ウォシュレットも解除しました。もう安心です。お尻を上げてください」

「良かった……」



 こうして彼は助かった。

 そして鞄の中から携帯用ウォシュレットを取り出し事なきを得た。

「やっぱり自分で調節しないと上手くいかないんだよな~……それにしても、楠本だったとはな。なるほど、どうりで……」



 小野田と楠本は隣同士ということもあって色々と会話していた。当然給料日は把握しているし、今日ビュッフェに出かけることも話していた。むしろオススメの店を教えられた。



「さらば、楠本……俺の、かつて愛した男」

 丁寧に畳まれたシャツが彼からこぼれた雫をそっと受け止めた。

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便座ジャック いずも @tizumo

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