幻を推す
狼二世
幻を推す
私が恋を知ったのは、ライブハウスの中だった。
都会の片隅。お世辞にも立派ではない小さなステージ。年代物の照明の下、踏めば軋む床の上、それでも彼は輝いていた。
心を動かされたのは、姿を見た時だったかな。それとも、歌を聞いた時かな。
ただ覚えているのは、心臓が跳ねてただ彼の姿しか見えなくなったから。
呆けた顔で歓声を送る。手が真っ赤になるまで拍手をしてステージを降りる姿を見送る。勢い余って買えるだけブロマイドを手に持っていた。
少しだけ正気に戻ったのは、隣でふかーい溜息をついた呆れ顔を見た時。暇つぶしに――と誘ってくれた友達は苦笑い。
『あれ、ガチ恋しちゃった?』
隣に居た友達はおどけて聞いてきたけど、上手く誤魔化せなかった。帰りの電車賃を貸してた頼むのが精一杯。
『ガチ恋なんてするもんじゃない』
財布を開いて、少しだけ神妙な声。
うん、私だってそう思った。それに、誰もが口をそろえて同じことを言った。
だけど、心はもう動いた後だった。
ただ一人の人間に心を奪われることを恋と言うのなら、それはまさしく恋だったのだと思う。
◆◆◆
彼はインディーズのバンドマン。お世辞にも人気はなかった。
それでも私にとっては一番だった。
だけど世間は厳しくて、彼がメジャーデビューするのには一歩どころか一万歩及ばなかった。
「応援しています!」
必死に言葉を届けた。最初は笑ってくれたけれど、10度も伝えるころには笑顔は仮面のように張り付いていた。
だからだろうか、引退すると言われた時も『仕方ない』と少しだけ心の底で納得していた。
引退ライブはあの日の友達と一緒に見に行った。
泣かないつもりだったけれど、泣いていた。
◆◆◆
彼が挫折しても世間は変わらない。
あの有名アーティストは引退、なんて世間を騒がすニュースにもならない――
その筈だった。
大規模麻薬取引の主犯XXX氏は――
引退ライブから数か月後。
久しぶりに彼の名前を聞いたのは、ニュース速報。
推しが犯罪で逮捕されたと言う報告だった。
名前を聞いた瞬間に背筋が凍り付いた。
体温は下がっていくのに、心臓の音だけは大きくなっていった。
まるであの時と正反対――恋が壊れる音がした。
◆◆◆
何も考えられなかった。
機械みたいに仕事をしていたら、顔色が悪いと言われた。
ご飯が本当に不味かった。無理やり喉に押し込むと異物みたいに吐き出しそうになる。無理やり水で押し込んで胃に押し込んでもなんの満足感もない。だけどご丁寧にお腹はなる。
気持ちを切り替えよう。だけどすぐに頭に浮かぶのはXXXの事。
どうして――なんで――
忘れたい。そうだ、ずっと取っておいたグッズを捨てよう。
押し入れのダンボールを開ける。重かった。CDとか沢山持っていた。どうやって処分しよう。
壊してしまえばいい。物理的に破壊するのが一番だ。CDは割ってしまおう。ブロマイドは――破こうと手を伸ばした時、いつかの推しと目があった。
どうしてこうなったんだろう。
あの日、友達と一緒にライブに行ったこと?
そう言えば、あの子はどうしているんだろう。
携帯電話に手が伸びていた。
◆◆◆
久しぶり――久々に聞いたあの子の声は震えていた。
「×××のことさ」
『うん、知ってる』
堰を切ったように思い出話がはじまる。
二人で一緒にライブを見たこと。熱を持って語る私に呆れ顔のあの子の事。
少し吐き出すと、少しだけ心が軽くなる。
『ありがとう、ちょっとだけ楽になれた』
違うよ、それは私のこと。
『最後に確認するけどさ――好きだった?』
「うん、好きだった」
『そう、私も』
そうして通話をきる。もう一度ブロマイドを見る。
あの日の推しが笑っていた。写真の中だけど、あの日がまだ残っていた。
なら、それでいいかな。
あの日のことは、まだ覚えてるから。
今がどんな形であっても、あの時心が動いたことは事実だから。
失恋――とはちょっと違う。思ったような未来がなかったとしても、思い描いた過去は変わらないのだから。
あの時『素敵』だと思った思い出は捨てないで持っていこう。
◆◆◆
気が付けば、思い出の世界に旅立っていた。
数年ぶりに開けたダンボ―ル。今でも変わらない推しの姿がそこに在った。
あれから、何年も過ぎた。
気が付けば私も結婚して故郷の街を旅立った。
大切なものだけを残して綺麗な思い出のままにしておく――には私は未熟で、苦い記憶も一緒に持ってきてしまった。
でも、苦いのだって味なのだと割り切れるくらいには大人になれたかな。
あの日から、XXXがどうなったかは分からない。でも、それでいいんだ。
XXXがどうなっても、あの日の彼は変わらない。思い出は、思い出のままでいい。
きっとあの日、私は幻に恋をしていた。
だけど、それだっていいでしょう。相手が幻だったとしても、恋をしていたと堂々と言えれば人生の実りになる。
たとえ幻だとしても、素敵だったものは変わらないのだから。
幻には、最後まで幻ていてもらいましょう。
「あれ、どうしたんだい?」
大切な人の声が聞こえた。
「実はね――」
語るのは若い日の苦い記憶。
「そうだんだ、実は僕もね――」
相槌をうってくれるのは平凡な私に相応しくない素敵な人。
さて、苦い話も一緒に分け合えば、きっと甘くなるでしょう。
《了》
幻を推す 狼二世 @ookaminisei
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