第二話

 正直、ここで絵を描いている阿里アーリーは幽鬼みたいだ。今日も今日とて明かりを持たされ、一心不乱に筆を動かす彼女の手元を照らしながら、私は欠伸をかみ殺した。作業が大詰めだかで、ここ何日かはずっとこんな調子だ。家族に怪しまれないように、彼女は皆が寝静まってから私の部屋にやってくる。いったい誰から習ったのか、窓からこっそり忍び込んでは寝ている私を起こすのだ。おかげで毎日寝不足で、昨日なんて針仕事の最中に居眠りをして母さんに叱られてしまった。


 阿里は地面にむしろを敷いて、その上に板を置いて机の代わりにしている。私は彼女の手元から目を逸らして、暗がりに辛うじて見える阿里お手製の絵巻の別の部分を見た。いつも眠気と戦っているせいでちゃんと見ていなかったが、最初の頃に比べるとだいぶ絵が繊細になっているような気がする。この絵巻も、最初の方と今描いている最後の方でも、いくらか絵が違うのではないだろうか。

西玉シーユー

 阿里が私に合図する。私は返事の代わりに欠伸をすると、蠟燭を持って移動した。


 私は今度は、彼女の墨のついた手を眺めることにした。阿里は、どうもこの絵巻を描いている間は私が何をしていても気にならないようで、絵をじっと見ていても文句を言われない。

「……ねえ、阿里」

 私がそっと呼びかけると、阿里は「ん?」と生返事をする。

「絵、上手くなったね」

「そんな。あの絵巻の先生に比べたらまだまだよ」

「それでも最初に比べたら上手いよ。……ねえ、阿里。今描いてるこれ、どういう話なの?」

 阿里は手を止めずに、「九洛天子きゅうらくてんしが娶った乙女は、ただの人間だったでしょう?」と独り言のように答えた。

「だから彼女は天界の、いろんな王や太子や姫君たちにいじめられるの。九洛天子の父君の大水帝だいすいていでさえも、二人の結婚には反対するの。大水帝は、乙女をさらって妖魔の住む土地に隠してしまう」

 私はふうんと頷いた。大水帝なんて、天下一のへぼ作家でも思いつかなさそうな斬新な名前だ。

「でも、乙女のために天子は妖魔の国に乗り込んで、大水帝と結託して乙女を閉じ込めていた妖泥王ようでいおうを倒すの。天界に帰った彼は大水帝を追い払い、以降何人も乙女を傷つけぬようお触れを出す。そして二人は天界でいつまでも幸せに暮らしましたとさ」

「……面白いね」

「でしょう? 九洛天子は幸せになって、君子として天界に君臨するの。それが彼の使命なのよ。あの先生が下さった絵巻からそれは一貫して描かれているわ」

「そうなの?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。すると、絵を描き出してから初めて阿里がこちらを向いた。蠟燭の明かりに浮かぶその顔は、信じられないという驚きの色がありありと浮かんでいる。

「そうよ。まさか分からないの? 九洛天子は公明正大、私たち貧しい民の英雄とも言うべきお方よ。彼が地上に降りたのは、まさかお嫁さんを探すためだなんて言わないでしょうね⁉ 彼はもともと乙女を娶ろうなんて思っていなかったのよ。彼は皆が幸せになったことを確かめたら彼女がいなくても天界に帰ったわ。乙女と出会ったのは彼の天命なのよ! 彼が民に尽くす姿を天界の神々は見ておられて、だから乙女と出会うように彼の運命を決めたのよ! これは民の幸せを願って行動する者は同じように幸福を得るべきだという天界の神々のお考えなの。もしそうじゃなくても、彼の運命の歯車を狂わせるものは私が許さないわ」

「ちょっと待ってよ。阿里、あなたさっき、天界の神々が乙女をいじめたって……」

「それは位の低い神々よ。天界の太子の運命をも決められるような上位の神々が、そんな些細なことに反対なんてするもんですか」

 阿里は言うだけ言うと、また紙に意識を戻した。つまりこれは、九洛天子の幸せを邪魔する悪役たちを阿里が成敗しているということなんだろうか……私はため息をついて考えるのをやめて、今度は壁の絵に目線を移した。それにしても阿里は、こんなにたくさんの九洛天子に囲まれてさすがに気味が悪いとは思わないんだろうか?



 それからどれぐらい経ったのか、阿里アーリーがようやく声を上げた。

「……できた!」

 眠気と必死で戦っていた私は、その一言で弾かれたように目が覚めた。

「本当⁉」

「ええ!」

 心底嬉しそうに飛び上がって喜ぶ阿里は、前までの大人しくて可愛い阿里そのものだ。だが、私がひととおりおめでとうを言うと、阿里は突然絵巻を巻き直し始めた。

「何してるの?」

 私が尋ねると、阿里はうっとりと答えた。

「もちろん、天子様にご報告するのよ。貴方の忠実なる信者が、貴方の幸せを願って物語の続きを描きましたって」

「待って⁉ まさか阿里、九洛天子が本当にいると思ってるの⁉」

 私は思わず大声を上げた。阿里はスルスルと紙を巻き取りながら、怪訝そうな顔を私に向ける。

「いるに決まってるじゃない。彼は天界で、数少ない信者の報告を待っているのよ」

「でも、そんな名前の神様、どこの廟に行っても……」

「いるじゃない。ここに」

 口ごもる私に、阿里は一番大きな九洛天子の似顔絵とその下の巻物を指す。

「私がここで天子様をお祀りしているから、ここが九洛廟よ。これはそのための祭壇」

「でも……普通廟って言ったら、他の神様とかいるじゃない。あとここにはお線香もないし、お供え物もない」

「お供え物がないから私の信心が足りないって言うの?」

 阿里は私に詰め寄った。

「それに他の神様なんていらないわ。ここは九洛天子ただ一人をお祀りしている特別な廟なの。ここは私が天子様を慕って作った、この世に一つだけの廟、この世に一つだけの聖なる空間よ。ここには私の心さえあれば十分よ。お線香も、他の神様も、お供え物だっていらないわ。必要とあらば、私のこの身を捧げるまでよ」

 阿里は唾を飛ばして、息もつかずにまくしたてる。こんな顔の阿里、見たことがない。やっぱり幽鬼みたいだ、ここにいる阿里も、ここにある絵も、いや、この納屋そのものが、まるで何かに憑りつかれているみたいだ。こんなことを言う阿里は知らない。こんなに不気味な阿里も知らない。私はすっかり混乱して、それきり黙り込んでしまった。

 


 阿里はそのまま巻物を整えて綺麗に紐で縛ると、書生がくれた巻物の横に恭しく置いた。膝をついて座り、頭を下げようとする。

 この瞬間、私は阿里の名を呼んだ。なに、と鬱陶しそうに阿里が振り向く。

「ねえ、阿里アーリー。あなた、九洛天子の乙女が自分だったらって思ったこと、ない?」

 問いかけながら、私はどうしようもなく泣きたくなってきた。喉が詰まって目元が熱くなる。

 阿里は少し考える素振りを見せて、やがて穏やかに微笑んでこう言った。

「いいえ。私がどれだけ天子様をお慕いしても、あの方のお気持ちだけは変えられないわ」

「じゃあ、乙女の名前は何?」

「天子様しか知り得ないことを、私なんかが知るものですか」

 阿里はそう言うと、祭壇に向き直って両手を地面についた。そして身を屈めて、頭を地面に打ち付ける。


 一回。二回。三回。


 私はその様子をじっと見守っていた。涙が止まらない。嗚咽を漏らさないようにぐっとこらえているのが私にできる最大限だった。


 阿里はスッと背筋を伸ばすと、何事もなかったかのように立ち上がった。

 その瞬間、祭壇の絵が微妙に揺らいだ。目を凝らした途端に突風が吹きつけて蠟燭が吹き消され、カタカタと音を立てて倒れていく。祭壇の、最後に残った蠟燭の明かりの中、私は九洛天子の絵がもう一度波打つように揺らいだのを見たような気がした——

 次の瞬間、「あっ」と小さく声を上げて阿里が倒れた。まるで糸が切れた人形を見ているように、阿里の体がくしゃりと崩れ落ちていく。私はびっくりして、慌てて阿里に駆け寄った。

「阿里⁉ どうしたの阿里! ねえ、阿里——」


 私がたどり着くまでの一瞬の隙を突いて、最後の蠟燭が倒れる。祭壇に乗っていたそれがコトリと地面に落ちると、まるであらかじめ油がまかれていたかのように地面が勢いよく燃え始めた。壁のごとく燃え上がった炎に、私は思わず悲鳴を上げて、顔を覆いながら後ずさった。炎は一気に燃え広がり、阿里の体を取り囲んでしまう。火の手が壁を伝って、私のところまで伸びてきている——ぐずぐず迷っている暇はなかった。私は袖で口元を覆うと一目散に逃げ出した。



 私の悲鳴を聞いたのか、はたまた誰かが煙を見たのか、外に出ると警鐘がけたたましく鳴り響いている。納屋の外には、早くも人が集まっていて、出てきた私を抱き留めてくれた——納屋は水をかけられるよりも速く、あっという間に火の手に包まれて、皆の見守る中で焼け落ちた。

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九洛天子絵巻 故水小辰 @kotako

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