九洛天子絵巻

故水小辰

第一話

 阿里アーリーは、大人しくて、優しくて、村の誰よりも可愛くて、頭の良い子だ。こんな彼女が私なんかと仲良くしてくれていることが何かの奇跡なんじゃないかというくらい、ただの百姓の娘なのが何かの間違いなんじゃないかというくらい、彼女は素敵な子だ——最近、夜中に私を起こしに来る以外は。




***




「ねえ、西玉シーユー

 阿里の柔らかな声が耳元で聞こえる。伸びてきた手を拒むように寝返りを打つと、間髪入れずに肩を掴まれた。たおやかな指が、予想外の力で食い込んでくる。私はたまらずその手を弾いて飛び起きた。暗闇の中、真っ白な衣に身を包んだ彼女が蠟燭の明かりの中にぼんやり佇んで私をじっと見つめている。

「阿里……いい加減寝かせてよ……」

 寝癖のついた髪がさらに乱れるのも構わず、私は頭を思いきり掻いて欠伸をする。それでも阿里は私の手首をぱっと掴むと、一言

「駄目」

 と言った。

「駄目よ。私にはどうしてもあなたの助けがいるの」

「助けって、何の? また新しい本でも買ってくるとか?」

 阿里が私の乱れた髪に指を通す。さっき肩を掴んでいたのと同じ手とは思えないほど、優しくて、柔らかい。阿里は片手で私の髪を整えながら、違うわと首を横に振った。

「本はもういいわ。だって、いくら探してもあの絵巻と関係あるお話は見つからないじゃない。これ以上はあなたに悪いわ」

 私はもう一度大欠伸をした。今にも瞼が落ちてくっつきそうだ。

「なら、あなたが描いてるっていう続きは? あれを出せば絵巻と関係あるお話が世に出るわよ」

「あれは駄目。私ごときの腕では、あの方の素晴らしさを表現できないわ。それより誰か、もっと高名な書生の先生にあの絵巻を見てもらえるといいんだけど」

 阿里の手がふっと止まる。私は落ちかけた瞼を開けて彼女を見上げた。

 すると、私がそうするのを待ち構えていたかのように、阿里の双眸が私をキッと見据える。蠟燭の明かりを下から受けたそのかんばせは、阿里の皮を被った鬼なんじゃないかと思えるほど可愛くない。

「それで、今夜も来てくれる? 西玉」

「……仕方ないわね」

 私はもぞもぞと起きだして、寝巻の上から着物を羽織った。



 そうでなくても夜は冷える。寝巻越しに肌を撫でる冷気に体を震わせ、眠い目をこすりながら、私は阿里と阿里の手元の蝋燭の明かりを追ってのろのろと歩き出した。向かった先は村の隅の、今はもう使われていない納屋だ。どこから手に入れたのか、彼女は鍵を出して閂を外すと、大きな音を立てないよう気を付けながら軋む扉を開けて中に入った。私は入り口で立ち止まって深呼吸すると、意を決して中に踏み込んだ。


 納屋じゅうに乱立する燭台に、阿里が一つずつ火を移して回っている。

 部屋が明るくなるにつれ、壁中に貼られた紙がぼんやりと浮かび上がる——炎に合わせて揺れる鬼のような不気味な顔は、どれも同じ男のものだ。書きつけのようなものから紙一枚をふんだんに使ったもの、稚拙なものから洗練されたものまで、大きさも筆致も出来栄えも様々なそれは、どれも顔の横に「九洛天子きゅうらくてんし」の名が記されている。そして阿里が最後の蠟燭に火を移すと、ひときわ大きな九洛天子の似顔絵と、その下の机に恭しく供えられた巻物が姿を現した。




***




 彼女があの本と出会ったのは、ちょうどひと月ほど前だったと思う。その日も、私たちは村で獲れた野菜を売りに市に行っていた。優しくて可愛い阿里アーリーは市の人気者で、隣の私には誰も目もくれない——これはちょっと言いすぎだけど、それでも市に来る連中は皆、私を極力避けている。理由は簡単、大人しい阿里は言われるままの安値でも野菜を売ってくれるけど、私はそうはいかないからだ。


 ところが、その日は見慣れない客が来た。背中に大きな籠を背負った、薄汚い書生がふらりと現れるなり、野菜と交換で本をもらってくれないかと言い出したのだ。

「ダメよ。本なんてここらじゃ誰も読まないし、私たちそもそも字が読めないもの」

「そこをなんとか……そうだ、お嬢さんがた、三国志はご存じで? 楊家の女武将の物語は? それとも驚天動地の仙人たちの……」

「はいはい、そこまで! 講談ならよそでやってちょうだい!」

 私が声を荒げれば、皆おっかなびっくりこちらを見る。そこに出てきたのが阿里だった。彼女は私をたしなめるようにかぶりを振ると、書生に向かって言った。

「すみません、先生。お気持ちに答えたいのはやまやまなんですが、私たちは教養もありませんし、文字もろくに習っていないのです。それに、遠い昔の戦のお話は苦手で……」

 阿里が頭を下げるのを見てか無視してか、書生は背中の籠を下ろして何やら漁り始めた。彼が取り出したのは、一本の巻物だった——薄く積もった埃を汚れた袖で拭い、書生は阿里に巻物を手渡した。

「字が読めないのであれば、絵巻などは如何です? 天界より下った美貌の太子、九洛天子きゅうらくてんしが民の苦しむを憐れんで、方々を旅して強きを挫いて弱きを助け、名もなき乙女を見初めて天界に連れ帰る、あまり知られていない物語ではありますが大変分かりやすく、お嬢さんがたのような年頃ならばのめり込むこと間違いなしの一作です」

「何よ、よくある恋物語じゃない。阿里、そんな奴放っときなさい。私たちお金取らなきゃ帰れないの、分かってるでしょ?」

 私が言い放つと、巻物を物珍しげに撫でていた阿里が反論したげに顔を上げた。だが、かまどの足しにも程遠い絵巻と市での稼ぎ、どちらが大切かと言われると、それは阿里にも重々分かっている。阿里は巻物と書生と私を何度も交互に見ると、最後に青菜を二つ手に取った。

「……お代はひとつ分だけで結構です。その代わりに、この巻物を……」

 阿里が震える声で青菜を差し出す。私はびっくりして、阿里を穴が開くほど見つめていた。あまり自分のものを欲しがらない阿里が、なんて珍しい。でも彼女も年頃の女の子なんだからこんなことがあってもいいか、そう思った私は絵巻と金を受け取って書生と野次馬を追い払った。



 それから、私たちがあの書生に会うことはなかった。


 でもその日を境に阿里アーリーは変わった。一つには、苦手だった市の値段交渉を練習し始めた。二つにはいつにも増して倹約をするようになり、三つには村の仕事をいつも以上に積極的にやるようになった。けれども四つ、家の手伝いの手は逆によく止まるようになって、ため息をつくことが増えて、そうかと思えば真冬に春が来たかのように突然にこにこと笑いだす。そして五つめ。彼女は市に行く日には、決まって九洛天子の書画を探すようになった。ある時は私に店番を任せて、ある時は私に行かせて、古本を売る屋台や行商人に片っ端から絵巻を見せて回っては九洛天子の物語が他にないか、あれば売ってほしいと持ちかけるようになったのだ。

 だが、私も阿里も、目当ての書画を手に入れることはできなかった。皆口をそろえて、九洛天子きゅうらくてんしも彼の絵巻も知らないと言い、大方例の巻物をくれた書生の創作なんじゃないかと言って笑った。その言葉にひらめいたのか何なのか、ついに阿里は自ら筆を執った。読み書きはできないからと、絵巻を真似て絵を描き始めたのだ。最初は土に指で手慰みに描いていたそれは、次第に本格的になっていって、ついには市で古紙と絵筆を探すようになった。そんな彼女を見ていた私は、良かれと思って、貯金をはたいて彼女の誕生日にちゃんとした道具を一式と、市の仲間にも協力してもらって集めた紙の束、それからまっさらな巻物を贈った。以来彼女は、九洛天子の続きを描くことが一生の大事だと言わんばかりに例の納屋に閉じこもり、夜な夜な筆を走らせるようになったのだ。

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