旅立ちの日に

七戸寧子 / 栗饅頭

本編

 光陰矢の如し。


 気になって調べたことがあるのだが、アーチェリーの矢は速くても230km/h程の速度らしい。対して、光は約300,000km/s。『如し』という言葉で結ばれる両者が毎度不憫に思われる。


 しかし、全ての光が超高速で肌に突き刺さってくるかといえばそうでもない。三月一日のこの日光には「やわらかな春の日差しに包まれて」という表現がぴったりな気がした。卒業式の日の高校生とその左胸に挿す造花のようによく似合う言葉の選び方だ。そんな出だしの答辞を務めた元生徒会長には労りのココアでも買っておいてやろう。ひとり寂しく自動販売機に硬貨を食わせて、紙パックを産ませた。これは私と自動販売機の仔だから大切に温めてやろうと思い、両手を這わせる。二月も終わり、日差しにも熱を感じられるようになってきたとは言えまだまだ気温は低い。手の内のあったか〜いココアは待ちぼうけをくらう私の初めての恋人だった。


「よ、遅くなった」


 来た。私が振り向いた先で、黒い長髪が艶めいていた。切れ長の目と泣きぼくろの三点で私を見据える。


「おー、答辞ごくろーさま」


 彼女には胸元の生きていない花がよく似合っていた。まさに卒業式の高校生という感じだ。鏡に映る私のコサージュは不格好というか不似合いというか、例えるならばコラージュ画像のような不自然さがあったのに。


「いやホント、読んでる時鼻水垂れそうになって死ぬかと思った」


 これが生徒会長を務めたことがある人間の言動だろうか。そんな彼女でもやはり「卒業式の高校生」というオーラが出ていて、私はそれを見ていると唇を歯の内側にしまい込みたくなるのだ。


「……光陰矢の如し、だな」


 うわ、出た。このココアは私のものにしてしまおう。ストローを刺して一口すすると、日々飲みなれた味がした。


 ただ、光陰矢の如しというのは否定できない。私のトートバッグからは先ほど頂戴した卒業証書がはみ出しているが、初めてこの制服に袖を通したのは一週間前ほどだった気がする。確かにあっという間の三年間だった。彼女の言葉に異議はない。ただ、あえて訂正をするならば。


「矢というよりは、月火水木金って感じ」


「光陰一週間の如し、とな?」


 我ながらしっくりくる。あくびをしながら登校しては、「また明日」と言って家へ帰る。「だるい」「つかれた」と口にしながら、金曜日にもつい「また明日」と言って友達に笑われるような、そんな感じがする。


「土日挟めばどころか、明日も制服着て学校来る気がするもん」


 おそらく、そんなことを考えているからコサージュが似合わないのだ。もっとも、明るくてくるくるの地毛とちんちくりんな体型が隣の彼女と比べたら十八歳っぽさに欠けると言われたらぐうの音も出ないのだが。


 ぐう。


 腹が鳴った。整った顔が私を見つめてにんまり笑う。その顔を見ていたくないので、適当な方向に視線を逸らしながらストローを噛んだ。たまたま視界に入る、泣きながら抱擁を交わす女子高生たち。


「なんか、逃げ出したい気分」


「腹が鳴って恥ずかしいから?」


「そうじゃなくて」


 私は卒業した実感も満足な青春も得られずに次のステージへ向かうのだろうか。ストローに歯型が増える。スカートを折る回数も増やしてみる。


「みーんな、卒業式って感じ」


「そりゃ卒業式だからな」


「実感わかなくて泣けないし、居心地悪いし、そもそも現実とも思いたくないし」


 ずず、とストローがノイズを吐く。私の肺が仕事をした分、紙パックがへこんだ。私の百円分の幸せはもう終わりかと少しへこんだ。カカオマスが魅せる甘美な夢がやがて終わりを迎えるのは知っている。いつか高校生でいられなくなるのも知っている。ありきたりな表現だが、現実というのは残酷だ。あーあ。


「あーあ、遠いところまで逃げたい」


 うなだれる私を泣きぼくろがじっと見つめていた。黒髪が涼しげに揺れる。


「……じゃあ、どっかに逃げるか」


 その瞳は決して私を見てはいなかったが、それで十分だった。端的に言えば胸が踊った。


「そうだな、海にでも行こう」


 僅かに口角が上がる。いい。いいね。窒素と酸素の塊をどんなにタップしてもハートは出てこないが、その顔がグッときた。悔しいから拡散はしてやらない。それでも、光陰の野郎にはシェアしてやりたくなった。『矢の如し』というのは、こうやって心を射止めるものに使うんだぞ、って。



◇◇◇



 見渡す限りの水平線。地の果てまで逃げてきたと言えば聞こえはいい。海に来るにあたって、かかった費用は七百円弱。所要時間は公共交通機関を待つ時間を含めても一時間ほど。うむ、近所だ。いい場所に通っていたものである。


「海来たね」


「なー」


 呟いてみたものの、それ以降何があるわけでもない。三月頭の平日の海にいる知的生命体が我々の他に存在するわけもない。ひとまず卒業式ムードからは逃げてくることができた。しかし、海水浴をするでも釣りをするでもない。写真を撮ってSNSに上げようにも、フォローしているのが同級生ばかりのタイムラインは目に毒だ。


「……満足した?」


 彼女はそう言うが、まだ世間と離れていたかった。とはいえ海でやることもない。適当な返事をすべく頭蓋骨の内側で言の葉をこねくり回していたが、やがて彼女から口を開いた。


「遊ぼうぜ、せっかくだから」


 黒髪を可愛げのないゴムでまとめた彼女は、ローファーを脱ぎ捨て、律儀に黒一色のソックスも宙に舞わせた。裸足で砂浜をぎゅっと踏みしめ、へらりと笑ってみせる。それがやはり悔しくて、羨ましくて、私も同じようにソックスを脱いでみせた。足の指と指の間を湿った砂が埋めていく。得体の知れない生き物が脚を這い上がって来る気がして飛び上がりたくなったが、にやにやと私を観察している女がいるから堪えた。


「なにそんなビビってんの」


「いやー、ライフガードさんがいない海って怖くない?」


「別に泳ぐわけじゃないんだからさ。それとも、今から全部脱いで泳いじゃおうか?」


 言葉を追うように鳴る、風が布とぶつかる音。彼女のアウターが潮風になびいている。


「ばか、本当に泳ぐ気?」


「あ、スケベなこと考えてる顔だ」


 何言ってるんだこの人。口に出してやりたかったが、それ以前に露骨に顔に出ていたのか「つれねーやつ」とそっぽを向かれてしまった。スカした顔を見ずに済むなら、かえって都合がいいかもしれないが。


「ま、いいや」


 彼女が一歩踏み出す。ぎゅむ、と擬音が見えるくらいにその足が砂に沈んだ。


「ちょっと」


 呼び止めてもこちらなど見やしない。腹立つ顔でもいいから振り返ってくれればいいのに。砂浜に彼女の足跡が増える度、背中が小さくなっていく。ああ、もう。転ばぬようにしっかりと足を踏み込みながら、それを追う。


「入水〜」


 ついに波打ち際まで辿り着いて、白波が引いたラインを越える。彼女の足の甲を白い泡が覆ったりはけたりしている。寒々しい風やそれを受ける制服が撒き散らす音と違って、波は優しい音で彼女を撫で続けた。波のASMR音声を聴きながら眠ると言っていた友達の気持ちが少しわかった気がした。風にさらわれて踊る黒髪が儚げで、その後ろ姿をYouTubeのサムネイルにしても様になりそうだ。そんなことを考えた矢先に限って、彼女は振り向く。


「こっちおいでよ」


「絶対冷たいじゃん」


「そんなことないって」


「ほんとにー?」


 恐る恐る近づいてみる。おっかなびっくりだけど、少し楽しみ。野良猫に近寄る気分に似ていた。客観的に見れば、おそらく私が水にビビる猫のようだろうけど。それこそインターネットで人気が出そうだ。再生回数を稼いだ上でつまらないテレビに引用され、「衝撃の瞬間まであと〇秒!」というテロップと共に茶の間を和ませるのだ。


「えい」


 ばしゃ。彼女が美脚をそれはそれは滑らかなフォームで蹴り上げた。びしゃびしゃ、と私に降りかかる液体と塩気。衝撃の瞬間ってやつだ。呆気に取られる私を見て、けたけたと笑う女子がひとり。


「てやっ」


 負けじと私も砂を蹴る。猫ちゃんよろしく後ろではなく、前方に。彼女のように長い脚ではないが、効果は十分だった。埃のような色の砂が彼女に積もる。


「わ、何すんの最低」


「えっ何それ私が悪いみたいな」


「ひどぉ〜い、LINEのステメで愚痴ろ〜」


「やめなさい、この」


 思い返せば醜い争いというか、馬鹿同士の応酬というか。砂を蹴り水を蹴り。揉み合いになり砂の上に転げ、二人で天を仰いで疲れるまで笑った。空が綺麗だった。


「空が青い」


 彼女も同じことを考えているらしかった。


「青いと言えば、海の方もね」


 真上を向いていては海は見えないが、波の音は相変わらず心地よかった。


「青いと言えば、青春だな」


「マジカルバナナやってるんじゃないんだけど」


 青春、か。それから逃げたくて高校を飛び出した気もするし、それにしがみついていたくて今ここにいる気もする。とにもかくにも、意識したくないことだ。やめたやめた、やーめた。


「やーめた。青じゃなくて、緑にしよ」


「なんで緑?」


「海の色も空の緑に見え紛ひてをかしってね」


 その昔、空は緑だったそうな。それは半分嘘なのだが、昔は今で言う青空を見て「緑」と表現したらしい。「青」という言葉は夜空などのもっと濃くて暗い色に当てたのだとか。


「あーね……?」


「わかってないでしょ」


 端正な顔や(元)生徒会長という肩書きに似合わず、彼女はアホそうな顔をする。黒髪が演出する清楚さが泣いている気がした。そう、黒髪が。


「そういえば、きれーな緑髪よね。今更だけど」


「りょくはつ? 私のは漆もコックローチも嫉妬する純黒だぜ」


「気になればネットで調べてね」


 会話をするうちに少し気分も冷めてきて、体を起こす。お互い海水まみれ砂まみれだ。しかも、制服で。


「もー、この制服で明日から学校どうすればいいのよ」


 私に続いて起き上がった彼女は、例の緑髪を手ぐしでとかしながら答える。


「私たち今日で卒業だよ」


 驚いた。一瞬、本当に驚いてしまった。次の一瞬には、そんな自分に驚いた。その次の一瞬は、波の音がやかましく聞こえた。三回瞬きをすると、泣きぼくろがにへらと笑う。


「服買いにいこうぜ。このままじゃ遊べないし」


 頷く。ライフセーバーもいないのに波に足を突っ込んでいたのが怖くなって、彼女の腕にしがみついてみた。手に触れた緑髪は潮でぱさついていた。歩きにくいのは砂のせいにした。



◇◇◇



「あー、これ可愛い」


「いいじゃん。値段は?」


 宝探しをしていた。白い床とやたら煌々としたした蛍光灯のラビリンスで、ノーブランドの服を物色する。砂だらけの制服なら更に気分も出たかもしれないが、さすがにそれで店を闊歩するのはみすぼらしいので上着を羽織った。いくら中古屋とはいえ恥ずかしい。


「980円。あ、でもこれタグついてる。新品じゃん」


「買っとけ買っとけ」


 年頃の女の子ふたりで中古屋って、ある? むしろ年頃だからと言うべきか。バイトをしたことがない私たちの寂しい財布でファッションを楽しむには、中古の服が丁度よかった。エコ意識が高めなのだと言い訳すれば、さほどみじめな気持ちにもならなかった。そもそも中古の服を着ることにみじめさを感じたことはほとんどなかったが。


 えいえい、とカゴに衣服を放り込んでいく。砂まみれの哀れな制服の代役さえ探せばよかったのだが、いつの間にかワンピースを二着も手に取っていた。


「見ろこれ、ドっスケベなニット」


 そう言って彼女が持ち出したのは黒のニット。縦ラインでハイネックになっているものだ。てっきり背中が露出した寒そうなものが出てくると期待していた私はがっかりした。細切りのフライドポテトを期待していたのに皮付きのタイプが出てきたような気分だった。


 服を選び終え、レジに向かおうとする途中で肩を引かれた。ニットを大切そうに抱えた女が楽器のコーナーを指さしていた。


「少し覗いていい?」


 頷いて、彼女の歩きに必死で着いていく。コンパスが広くて羨ましい。キーボードのコーナーの前で早足がピタッと動きを止める。彼女の世界には慣性がないのかもしれない。


「買うの?」


「いや、今のやつで十分」


「見たいだけ?」


「そ。見たいだけ」


 キーボードは彼女の趣味だ。私にはさっぱりわからないが、かっこいいと思う。高身長のモデル体型、顔は整っている、成績は上位、元生徒会長、趣味はキーボードで文化祭ではバンドまでやっていたときた。だから彼女が笑うと腹が立つのかもしれない。フィクションみたいな属性しやがって、妬ましい。


「これからも続けるの?」


「わざわざ辞めようと思って辞めねーよ」


「わ、かっこいい」


「飽きたら辞めるけどな」


 ふい、と彼女はキーボードの棚から目を離して歩き始める。


「どこいくの?」


「会計。眺めるの飽きたし」


 こんな風にキーボードも辞めてしまうのだろうか。想像すると鳩尾のあたりがつままれたような気分になった。先程は「妬ましい」と表現したが、私の中にある感情は妬みとも憧れともつかないもので、言葉の難しさを実感させられた。


 私が脳内で語彙の箱を掻き荒らしている間にも彼女は進む。私は小走りでその横に着いていく。動きに連動してかしゃかしゃと音を立てる樹脂製のカゴの中で値札が揺れた。500円。1480円。980円。


「……なんかさ」


「なにさ?」


「華の女子高生が中古屋って」


 改めてそう思った。親友は鼻で笑う。


「もう女子高生じゃねーしいいだろ」


 改めて実感させられた。私の口が勝手に笑った。


 中古の服を買っても、店員のおばちゃんが「ここで装備していくかい?」と尋ねてくれるわけではないので多目的トイレで着替えを済ませる。砂の汚れは見る影もなく、鏡には女の子らしいシルエットが映っていた。少なくとも、シルエットは。


「もうちょい可愛い顔に生まれたかった」


「私の次くらいにはかわいいよ」


「あなたはキレイ系でしょーが」


 彼女のパンツスタイルはやはりキマっていて、「エロいから」と買っていた例の縦ニットがスマートなラインを演出していた。いい企業から若くして独立し、独特のセンスで富を築き上げた女社長といった感じだ。比較して自分の将来を思い描いて、胃がきりりと痛んだ。否、自分の将来が少しも思い描けなかったから胃痛がするのだ。


「それで? どこ行く?」


「そうだな……カラオケかボウリングかゲーセンか」


「結局そういう所よね」


「卒業式終わりの高校生だらけだろうけどな」


 流し目が私の喉を詰まらせる。「う」と口から変な音が漏れた。そういうところは嫌だ。彼女はきっとそれを察してくれているんだ。かといって、じゃあ、どこへ?


 ぐう。


 自問自答と言うべきか。私の口からの問いには腹が答えてくれた。思えば、学校で腹を鳴らしてから何も口にしていない。これは胃が痛むのも納得だ。


「なんか食いに行くか、私のオススメで」


 食の話になると彼女は絶対にはにかむ。ニヒルな笑いが似合う癖に、こういう時が一番かわいい。そういうところがずるくて腹が立つ。しかし、残念ながら空っぽの腹では自立できなかった。


「……任せるわ」


 こいつのチョイスに間違いはない。何が出てくるか想像しただけで唾液が分泌されて口内を満たす。身体は正直なのだ。



◇◇◇



 そしてかれこれ数十分後。店の席に座り、そろそろ限界を迎えつつある空腹をなだめていた。


「あのさ」


「なにさ」


 ちゃっちゃ、と湯を切る音がする。私は必死に胃を撫でて気分を鎮めていたというのに、鍋から立ち上る湯気は私の鼻先を撫でては胃袋を暴れさせる。やはりカウンター席はこれが最高で、これが最低だ。


「女子高生ふたりでラーメンって」


 まして、座敷もあるのにカウンター席って。


「なに? ふわとろパンケーキとかがよかった?」


「もっと映えとか狙うものよ普通」


 口に出したはいいが、ラーメンは今もっとも身体が求めているものだった。パンケーキなんてどうでもいい。この女に映えを狙わせてもTwitterで『パンケーキありえんフッワフワでうま』とか言いながら雑に垂れ流される未来が見える。


 そんな会話をよそに、無愛想な店主が私たちの前に丼を並べた。「おまちどう」とハスキーボイスが鼓膜を揺らし、私の胃に巣食うチワワが待ちきれずきゃんきゃんと騒ぎ出す。


「いただきます」


 手早く拍子を打ち、啜る。美味い。時に言葉というのは無力だ。美味い以外の言葉が全て無粋に感じるほど美味い。


 ふと、ラーメンだろうとストーリーに上げればそこそこ反応が貰えるかなとも思ったが、SNSのハートマークではお腹は膨れないし自己肯定感だってさほど膨れない。隣の女は写真くらい撮っているだろうか。視線を横に流してみる。


 途端、目が合うレンズ。羨ましい最新型スマートフォンのまんまるおめめ。相当よく撮れるんだろうな。ラーメンにがっつく私が。


「必死でウケる……と」


「ちょっと、なにしてんの」


「インスタにアップしてる」


「おいこら」


 彼女からスマホを取り上げようにも、箸とれんげは私のことを離してはくれなかった。後からどうにかすればいい。とりあえず目先のご馳走に舌鼓を打たねば無礼というものだ。キーボードを打つなど論外だ。


「いただきますっと」


 そして彼女は麺を持ち上げてはふーふーと息を吹きかけていた。そういえばこいつ猫舌だった。なんで妙にかわいいんだよ。そりゃあカメラで撮られていることにも気付かずラーメンを啜る女はどう足掻いたって可愛さはあなたの次以降になるだろうよ。


 なんだか悲しくなって、必死になって麺を啜った。鼻もすすった。「泣いてんの?」と笑われ、「泣いてねーし」と答える。ラーメンはやっぱり美味い。


「ごちそーさまでした」


 暖簾をくぐって外気を浴びる頃には機嫌がなおっているのだから不思議なものである。汗ばんだ頬に三月の風が心地よい。いつの間にか空は暗くなっていた。日は伸びたといえ、まだまだ春は遠い気がする。実際はもう春と言っても差し支えないのだが。


「いい食いっぷりだったじゃん」


「まーね」


 何気なくスマホを取り出し、インスタグラムを立ち上げる。ストーリーの欄に、見慣れたアイコン。タップをすれば画面いっぱいに広がる、ラーメンにがっつく少女。「必死でウケる」の文字。きっといろんな友達がこの投稿を見たのだろう。


 明日学校行ったら、あいつらに笑われるのかな。そうしたら、私も笑いながら愚痴るのかな。


 そこまで考えて、やっと自分で思い出した。


 今日で卒業したんだった。


 親友に教えられるまでもなく、自分で気づいてしまった。


「この後、どうしようか」


 帰りたくなかった。


「散歩でもしようぜ」


 それでよかった。



◇◇◇



 しかし、ただの散歩というのも退屈なものである。いや、何をするよりもお喋りが一番楽しいし、その意味ではカラオケもボウリングもかえって邪魔なのだが、散歩というのは二人でいる口実にならない気がして嫌だった。友達と過ごすことに口実を求めるのもいかがなものかと思うが。壁と屋根がほしいだけだろうと言われたらその通りでもあった。


 とはいえ、ラーメンの後にカフェという気分にもならなかった。もうこうなったら女子高生はとことん捨ててしまいたい。


「お、あそこ寄ろうぜ」


 ちょうどいい。私の心を読んだように提案してくるから憎めない。顔を上げる。彼女が嬉しそうに指を向けるピンクの店。アダルトショップ。


「いや、流石に女子高生捨てすぎでしょ」


「もう女子高生じゃねーんだから」


「いや高校生捨てるにしても女子としての恥じらいがなさすぎるわ」


「行かないのか? 私たちも晴れて十八歳、高校も卒業したときた」


 黒いカーテンの先の世界に興味はない。などという嘘をつくつもりもない。それなりに年頃なのだ。ここで口角が上がる私はいけない子だろうか。


「決まり」


 というわけで、勇ましく入店してやった。カーテンをめくるのも呆気なかった。わざわざ言葉に起こすほどの感動もなかった。初めて入るラーメン屋の暖簾の方が余程重く感じられた。


 そこに広がる世界が新鮮というわけでもなかった。今どき、深夜に布団を被ってインターネットをまさぐればいくらでも似たようなものは見ることができた。乳房を丸出しにした女性が並んでいてもテンションが上がるということはなかった。そもそも女の裸より男の裸の方が好きだ。


「なんかフツーだな」


「ねー」


 所詮は男性向けなのか、私たちが盛り上がるようなものは特になかった。茶化して遊ぶには十分だが、本気でほしいと思えるようなものは少なかった。可愛い二次元少女の裸で少しも喜ばないかと問われると否なのだが。


「わ、ローターとか売ってる」


「え、マジ?」


 気持ちいいのかな。買ってみようか。いや、音とか怖いし。絶対おもしろいけどな。そんなに言うなら買えば。


 アダルトグッズの棚の前でこそこそと顔を寄せ合う私たちは傍から見ればどんな人だろうか。想像するのもアホらしい。


「……いや、一周まわってから買うもの決めるわ」


 あ、この人何か買うつもりでいるんだ。私は冷やかす気だったので、少々面食らった。こんな美人がこんな場所にいたら面で食われてしまわないだろうか。不安になって周りを見渡す。誰もいない。胸を撫で下ろす。


 次に足を踏み入れたのはアダルトビデオの棚の列。どこを見ても裸の女のパッケージ。この人たちはいくらもらってこんなことをしているのだろうか。私だったら、油田でももらわない限りこんなことをしたいとは思わないが。


 感心したのは、ジャンルの多さだ。人というのはスケベで業が深い生き物らしい。改めて実感した。


「見ろよ、レズモノでこんなにあるぜ」


「へー、女同士の映像が好きな人ってそんなにいるんだね」


「考えてみりゃ男同士が好きな女もたくさんいるしな」


「なるほど、言われてみれば」


 レズモノ、と雑に形容されたそれらもまたバリエーションに富んでいた。ラブラブしてそうなやつだったり、SMだったり、キャットファイト……? とやらだったり。初めてスタバに入ったあの日を思い出す。


「決めた、これ買うわ」


 女子高生の衣装を着たお姉さんが並んでいるパッケージを手に取り、彼女が笑う。


「え、あなたってそっち系?」


「いや? 女が絶対無理とも言わないけど」


「じゃあ普通にイケメンが出るやつにすればいいのに」


 女の子がにゃんにゃんする映像で自分を慰められるかと言われると、私は自信がない。女性はバイである事が男性と比較して多いという話を誰かがしていたが、ソースをこの目で確かめていない以上眉唾物だ。

 そんなことはどうでもよくて、どうしてイケメンが出るやつにしないのだろう。


「だって、それだと本気でムラムラしそうだし」


「本気でムラムラしないでどーすんのよ」


 使えないじゃん。何にとは言わないけど。ナニに。ところが答えは予想外なものだった。


「今から私の家で観るんだよ、お前と」


 なんだ、やっぱりニヒルな笑いが似合うじゃないか。私の口から自然に出た返事は「えーーー」だったけれども。



◇◇◇



 彼女の家に向かう道中で特段何があったわけでもなかった。店から出る時に白髪のおじいさんと入れ違って「生涯現役かっこいい〜」と囁きあったり、電車に乗って「最後の下校か〜」と呟いたり、それくらいのものだった。


 家には事前に連絡を入れておいたとの事で、彼女の母親には軽く挨拶をするだけですんなり通してもらえた。家に上がるのは二回目だったが、彼女の部屋に入るのは初めてだった。


「パソコン立ち上げるから適当にかけてて」


 促されるまま、彼女のベッドの上に腰を下ろす。親友が高校三年間のうち一年ほどの時間をここで寝て過ごしたのだと思うと、不思議な気持ちになる。卓上の時計を見るとまだ七時でしかなかった。もっと遅い時間だった気がしたのに。


 彼女のノートパソコンの中で記憶媒体がしゅるしゅる鳴るのが心音あるいは呼吸音のようだった。瞼を開くようにディスプレイに明かりがつく。淫猥な映像を収めたディスクが飲み込まれていく。ふと、昼間の自販機を思い出す。私の子供だなどと大切に握っていたココアはとうにゴミ箱の中だ。それに対して罪悪感が湧くわけでもなく、むしろ自身の奇行に呆れてしまった。


「ほら、イヤホン貸してやるよ」


 イヤホンをはんぶんこして観るらしい。イヤホンはんぶんこなどという素敵なシチュエーションはイケメンな男子と帰りの電車とかでやりたかった。女友達とアダルトビデオを観るためにこんな青春らしいイベントを消費してしまうだなんて。


「こーゆーの、彼氏とやりたかった。高校生活、男と縁なかったなー」


「私も似たようなもんだし大目に見てくれ」


「うそつけ、あなたはバンドとかでそこそこ男とつるんでたじゃん。特にギターの子なんかかっこよかったじゃない」


「でもあいつ彼女いたしさ〜」


 その言葉には、少し思い当たる節があった。噂の男子が女子とイヤホンを分け合っていたのを電車で見たことがある気がする。


「あー、ショートヘアでそばかすの子?」


「え、違うけど。誰それ」


 きょとんとした顔をされて、そんなもんかと私も割り切る。別に思い入れがある訳でもない他愛もない話題だったが、いつだったかに見た二人はそこそこお似合いに見えた。事実はそうではないと知って、少し悲しいというか、虚無が詰まったしゃぼん玉が心に浮いてるような気分になった。


「ほら、心の準備できたか?」


 どうでもいい話題は置いといて。耳にイヤーピースを挿して身の準備は完了。いかがわしい映像も初めてなわけではないので心の準備も完了。親指と人差し指で輪を作ってみせると、「エロい」と笑われた。


 カチ。


 軽いクリック音と共に映像が再生される。素人ナンパモノらしく、街中でかわいい女の子が声をかけられるシーンから始まった。車に移され、様々な質問を受ける女の子。どうせヤラセなんだろうと疑ってかかった瞬間に興味は冷めた。セクハラで慰謝料をふんだくれそうな質問を受けて恥ずかしそうに俯く彼女の様子が茶番にしか思えなかった。


「これさー、マジでこういう企画に声掛けられたらどうする?」


 だから、会話をしてくれる相手がいるのは嬉しかった。


「いくら貰えるのかと、相手がどんな人かによる」


「おー、意外と抵抗ないタイプだ」


 想像してみる。例えば、相手がどんな人だとしても世界の半分が貰えるなら私はこの身を差し出すだろう。逆に、美形のお姉さんだったら「ホ別二万ね」と言われてもついていくかもしれない。むしろイケメンの男よりも抵抗がない。男とヤってしまえばそれがバージンロストになるが、女相手で失うバージンはない。


「どんな人が一番いい?」


 彼女も退屈なのか、導入のシーンをちまちまと飛ばし始めた。


「うーん、そうねー……」


 私はどんな女が好きだろう。それは決して性的にというわけではないが、同性の容姿にも好みくらいある。私は自分の子供っぽい体型と明るい髪があまり好きではなくて、そうでない大人な風貌に憧れがあった。脚がすらりと長いモデル体型で、黒髪で、キレイ系の……あれ。


「まー、あなたみたいな人が好きよ」


 日頃彼女に腹を立てているが、そこに妬みが含まれている事も多々あった。つまりは、そういうことだ。


「おっ、奇遇じゃん」


 そう言われると嬉しくなるが、それを言っているのがこいつだと思うとやはり思うところはある。何故こうも腹の虫をおちょくるのが得意なのか。私はこの女の隣にそこそこの居心地の良さを感じているが、不思議と気が立って仕方ないのだ。


 カチ、カチ。また彼女がシーンを飛ばす。いつの間にか下着姿になっていた女性たちは、乳房を触ったり触られたり、唇同士を合わせてみたりしていた。あまり気持ちのいい映像ではない。そういう性愛の形を否定するつもりはないが、盛り上がることはない。


「思ってたよりつまんねえのな」


 カチ、カチ。ディスプレイには下着すら脱ぎ捨てて、乱れる女性が二人。


「セックスしてみてえな」


「まーねー、興味はあるよねー」


「高校生で初体験を済ませる人間が決して少数ではないというデータがあるらしいぜ」


「言わないでよそういうこと」


 他人に触られたらあんなにアンアン言えるものなんだろうか。想像するとじんわりくるものがある。


「もうチャンスもないもんね」


「青春一番のやり残しだよ」


「ヤり残し?」


「うーわ」


 何が「うーわ」だ。私からすれば一緒にアダルトビデオを観ようと誘う方が「うーわ」だが。睨みつけてやろうと、横を向く。彼女もこちらを見る。目が合う。泣きぼくろが素敵。縦筋の入った黒のニットを「エロい」と言っていた彼女の気持ちが痛いほどわかってしまった。つい目を逸らす。彼女は代わりに口を開く。


「……私、よく考えるんだよね」


 あっそ、どうでもいい。言葉にはしなかった。


「月明かりでセックスって、本当にできるのかな」


 少し興味が湧いた。聞いてやらんこともない。


「……試してみない?」


 その言葉は思っていたよりも効き目があった。彼女はやっぱり見た目が良い。緑髪のつやがまさになまめかしい。私の身体は正直だ。改めて思い知る。だから、腹が立つ。ビデオを停止して、部屋の明かりを落とす彼女に心が踊ってしまうのだから。



◇◇◇



 結論から言うと、セックスはしなかった。キスもしなければ手を繋ぎもしなかった。暗い部屋の中でカーテンを引いた。目の前に隣の家の壁があって、月明かりが差し込む隙間など一つもなかった。私たちはゲラゲラ笑って、照明のスイッチを押した。


「じゃ、また明日」


「明日は学校ねえって。それとも、また遊ぶか?」


「あーそれもいいねー。とにかく、またね」


「おう」


 結局、ビデオを完走することもなかった。お互いに不慣れなスマブラを嗜んで、それで解散になった。手を振って、帰路に着く。ふと振り返ると、まだ玄関から私を見ている。暖かそうなニットは、少しも扇情的ではなかった。


 前を向いて歩き出す。後ろで扉が閉まる音がする。空を見上げてみると、星が出ていた。私が唯一判別できるオリオン座を見つけて、なんとなく深呼吸をした。


 高校、終わっちゃったなー。


 特段青春をした記憶はないが、振り返れば悪くもない三年間だった。楽しかった。


 ふと、海でのやりとりを思い出す。こういう空の色こそ、先人は「青」と呼んだのかもしれない。そういう意味での「青春」は、なんだかしっくりきた。


 後ろを振り返ってみる。あいつの家の玄関の曇りガラスから明かりが漏れている。別に二度と会えないわけでもない。これから青春できないわけでもない。それこそ、白髪しか生えない年になってもアダルトショップに来るおじいさんがいるくらいなんだから、私たちなんてまだまだだ。


 ひゅ、と風が吹く。流石に冷える。数時間前まで古着屋に吊るされていた私の服たちと縮こまり、両手に息を吹きかける。ラーメン臭い。


 あーあ、どうしたものかな。


 ちょっぴり口角を上げながら、私は自宅への歩を進めはじめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

旅立ちの日に 七戸寧子 / 栗饅頭 @kurimanzyuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説