ドールの着物
増田朋美
ドールの着物
暖かくなってきて、春はもうすぐだと言うことがわかってきた日だった。それでは、もうじき寒い季節も終わりになって、暖かい季節がやってくる。それでは、少しづつ、桜の季節と言うものも近づいてくるのではないか、と思われるのであるが、花冷えと言う言葉もあり、冬と春がまだ喧嘩を繰り広げているようだ。
その日、杉ちゃんとジョチさんは、杉ちゃんのマイナンバーカードを更新のため、近くの公民館を訪れた。マイナンバーカードの手続きはすぐ終わった。杉ちゃんたちがさて、帰るか、と、研修室と書かれた部屋の前を通りかかると、ちょうどドアがガチャンと開いて、中から人が三人ほど出てきた。
「あれ、お前さんはどっかで見たことがあるな。」
と、杉ちゃんが思わずそう言うと、其の女性も杉ちゃんとジョチさんが誰なのか、すぐわかったようである。
「あら、杉ちゃんと理事長さん!」
一緒にいた女性が、誰か先生のお知り合いなんですか?と聞いた。
「先生、そうかあ、お前さん、お教室を始めたんだね。渡辺加奈子さん。」
杉ちゃんが、彼女の名前を言うと、彼女、渡辺加奈子さんは、嬉しそうに言った。
「ええ、まあ、苦労をしたといえば嘘になりますが、やっとウォルドルフ人形講師の資格を得ることができました。今年度から、こちらの公民館で、教えることになっています。まだ、生徒さんは、二人しかいないけど、ここで一生懸命教えることになったので、私も頑張らなきゃ。」
「そうなんですね。それでは、もうニートは卒業ですか。良かったじゃないですか。それは嬉しいですね。」
と、ジョチさんが、そうせつめいした。
「ええ。ありがとうございます。やっと、あたしも仕事を持つことができました。やっぱり好きなウォルドルフ人形を作ることが、一番幸せです。」
「製鉄所にいたときは、やたらおどおどしていて、何も自己主張もできなかったやつが、こんな明るくなっちまうとはな。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「杉ちゃんそれは言わない約束でしょ。」
加奈子さんは、にこやかに言った。
「それに私、もうすぐ結婚する事になっているんです。だから、もう渡辺加奈子という名前も捨てるの。柚木加奈子という新しい名前になります。結婚式も何もやらないけど、あたしが、新しい私になる第一歩がやっと踏み出せました。そのうち、公民館で生徒がいっぱいになったら、人形スタジオを作って、ウォルドルフ人形を、作りたいです。」
「いいですねえ若い人は。そうやって将来に希望が見えるんですから。それは、嬉しいですね。」
ジョチさんは、彼女をにこやかに見つめた。
「あそうだ、お願いがあるんですけど。」
加奈子さんは二人の顔を見ていった。
「なんですか?」
と、杉ちゃんが言うと、
「あの、要らなくなった着物というか、サイズが合わないとか、虫食いがあって着られなくなったとか、そういう着物を譲ってもらえないかしら。もちろん、お金はちゃんと払いますよ。ウォルドルフ人形の着物にしたいの。できれば、可愛い感じの、そうだな、銘仙がいいと思うわ。あの着物は、すごく柄が綺麗だもんね。まあ、なければないで諦めるから、少し分けてもらえるように言ってもらえませんか?」
「ああ、わかりました。それは、水穂さんに言って置きます。もし、なにかあれば、持ってこさせますよ。」
ジョチさんは、わかったという顔でそういったのであった。杉ちゃんも、まあ、それならいいかという顔をした。
「ホントですか、ありがとうございます。ぜひ、よろしくおねがいします。嬉しいです。」
と、加奈子さんは嬉しそうに言った。
「これからも頑張ってください。応援していますから。」
「そうそう、可愛い人形を作ってあげてくれや。」
杉ちゃんとジョチさんは、にこやかに笑って、彼女たちの前を離れた。全く、人間って、ちょっとしたことで変わっちまうもんだな、と、杉ちゃんが言うと、そうですね、とジョチさんもしたり顔で相槌を打った。
そのまま、杉ちゃんとジョチさんは、製鉄所へ戻った。
「ただいま!無事にマイナンバーカードの手続きは終わった。それじゃあ、ご飯にしましょうか。」
と、杉ちゃんは、すぐに台所にいって、水穂さんのご飯を作り始めた。その間にジョチさんは、四畳半に行って、
「水穂さん、具合はいかがですか?」
と、彼に言った。水穂さんは、眠っていたようであるが、ジョチさんに声をかけられて、よろよろと布団の上に起きた。
「ええ、かわりありません。」
細い声で水穂さんはそう答える。
「そうですか。変わりないということは、良くも悪くもないということですか。それでは、良い方に取ったほうがいいと言うわけですね。そうしておきましょう。」
ジョチさんは、水穂さんの隣に正座で座った。
「実はですね、水穂さん。お願いなんですけど、着物で、ふるくなって着られなくなったものはありませんか。なんでも、あなたも覚えていると思いますけど、渡辺加奈子という女性が、ウォルドルフ人形の教室をはじめましてね。その人形に着物を着せたいんだそうです。それに銘仙を使用したいと言うことで。少し分けてもらえませんか?」
「冗談じゃありません!どうしてウォルドルフ人形に銘仙の着物を着せなきゃならないんです?それなら友禅とか、そういう物を使えばいいでしょうに。なんでわざわざみっともないと言われた着物を、使わなきゃならないんですか?そんな不利なこと、やめてくださいよ!」
水穂さんは、急いでそういったせいか、思わず咳き込んでしまった。ジョチさんもこの事実を予想していたが、この反応は、極端すぎるのではないかと思った。
「水穂さん、そんな事、今の時代なら、誰も言わないと思いますよ。現に彼女だって、銘仙は可愛いと言っていて、みっともないということはありませんでした。ですから、ウォルドルフ人形に着せてもいいのではありませんか?」
ジョチさんは、そう言うが、水穂さんは、急いで首を振り、
「絶対に、そういうことはありません。僕達は、それを着ているせいで、さんざんひどい目にあってきたわけですから、そういうことは、二度としたくありませんよ。それにウォルドルフ人形といえば、教材としても使用される人形ですから、そういう人形に汚いと言われるような着物を着せるなんて、言語道断ではありませんか?」
と、すぐにジョチさんに言った。
「そうですね。当事者はそう思うんでしょうけど、今の時代、着物のことを、それほどわかっている人は少ないと思うので、銘仙のことも、詳しく知っている人は、あまりいないと思いますよ。」
「そうですが、今でも、銘仙といえば、同和関係者と考える人も、少なからずいるでしょう。そういう人は、ちゃんといるわけですし、小説なんかでも、登場するわけですからね。」
ジョチさんと水穂さんがそう言い合っても、多分、このお話は、解決しないと思われた。それは、どちらかが、妥協しなければ、終わらない問題だった。
「おーい、ご飯を持ってきたぞ。さあ、食べようね。しっかり食べるんだよ。今日は、ちゃんと完食してもらうからな。」
杉ちゃんが、ご飯の器を車椅子トレーに乗せて持ってきた。内容は、トマトソースニョッキ。特殊な小麦粉であるパスタであれば、なんとか食べてくれるかなと思われるのだ。
「ほい、食べるんだな。しっかり、食べてもらうぜ。」
杉ちゃんは、ご飯の皿をサイドテーブルに置いた。その後は、ご飯を食べる方へ変わってしまったので、銘仙の話はそれで終わってしまったのだった。
それから、数日が経って。
「あの、すみません。私、滝川と申します。渡辺加奈子先生の、生徒として公民館でお会いしまたことありますよね?」
と、一人の女性が製鉄所を訪ねてきた。とりあえず、ジョチさんが応答して、
「あの、どなたですか?どうしてここがわかったんでしょうか?」
と、彼女に聞いた。
「はい。渡辺加奈子から、直接ここについて聞かせていただきました。あの、磯野水穂さんという方が、ここにいらっしゃると聞いたものですから。」
と、滝川と言った女性は、ジョチさんに言った。
「はあ、それでなんのようでこちらに来訪されたんでしょうか?」
と、ジョチさんが言うと、
「ええ、渡辺の、残した手帳から、本当は今日、彼女がここにこさせてもらう予定だったんですが、それはできなかったので、生徒の私が、代理でこさせてもらいました。」
と、彼女はそう答えるのであった。
「ということは、彼女、渡辺さんは、なにかあったんでしょうか?」
「ええ。彼女は、3日前に、自ら命を絶ちました。私達も、びっくりしたけど、彼女の結婚は、偽装結婚だったみたいです。私達も、知りませんでした。そんなふうになってたなんて。これから、一生懸命人形教室をやっていくつもりだったと思うんですけど。あたしたちのことを考えてくれれば、そんなことをしてしまうこともなかったのに。それは、彼女には、できなかったんですね。」
滝川さんは、小さい声で答えた。
「そうだったんですか、、、。」
ジョチさんは、考え込むように言った。
「それであなたは、今日何の用事でこちらに来られたんでしょうか?」
「ええ。こちらのお人形なんですけど。」
と、滝川さんは、カバンの中から、人形を一つ取り出した。人形は、裸のままだった。
「なんですか?」
ジョチさんが言うと、
「渡辺加奈子先生が、最期にお作りになったお人形です。生前、先生は、このお人形に、銘仙の着物を着せたいと、仰っておられました。それで、銘仙の着物で、着られなくなったものがあれば、一つだけでもいいから、分けてもらえませんか?」
と、彼女は言った。
「そうですね、、、。」
ジョチさんは、大きなため息を着いた。
「生憎ですが、水穂さんは分けていただけないと思いますよ。水穂さんたちにとって、銘仙の着物に抱えられている事情は、非常に、複雑ですから。」
「そうですか。でも、それは昔の話で、今は、銘仙というのは、誰でも着られると聞きましたが?」
と、滝川さんは若い人らしく言った。
「そうかも知れませんが、当事者の人には、難しいと思います。そういう、気軽に、着物を使ってしまうことも。着物は、難しいですからね。例えば、友禅とか、琉球紅型といった身分の高い人の着物を使うなら、いいのかもしれませんが、、、。リサイクルショップ等で、そういう着物を入手されて、それをお人形に着せてあげてはいかがでしょう。」
ジョチさんがそう言うと、
「ええ。でも、渡辺加奈子先生が生前、どうしても着させてあげたい、と口癖の様におっしゃっておられましたので。それは、やっぱり叶えてあげたいと思うんですよ。だって、今回の事件、結構噂になっているのをご存知ありませんか?きっとね、渡辺先生は、相手の人を愛していたんだと思いますよ。だって、ものすごい発狂して、電車に飛び込んだと聞きましたから。もちろん私は、其の現場にいたわけでもありませんが、、、。」
と、滝川さんは残念そうに言った。
「そうですか。自宅にテレビがないので、知りませんでした。ですが、銘仙といいますのは、ちょっと背景が大きすぎて複雑であり、いくら可愛らしいと言って、気軽に買って、着てみようというわけには行かないと思うんです。確かに、みなさん、SNSなどにもアップされたりしていますけど、それを、行けないと指摘する高齢者もいると思いますからね。」
ジョチさんはそう言うが、
「でも、そうなったら、この子は、一生着るものがなくなってしまいます。私としましては、今まで私に優しくしてくれた、加奈子先生の願いを叶えてやりたいんですけどね。それでは、いけないんしょうか。」
と、滝川さんは、そういった。随分意思の強い女性だなとジョチさんは思うが、それはもしかしたら、彼女も、なにか訳があるのだろうと思った。類は友を呼ぶともいう。彼女、渡辺加奈子さんは、精神疾患があって、10年以上仕事ができなかった経歴があるし、それで人形作りの講師免許を取ったというのは、多くの他の障害者には、羨ましいことだろう。もしかしたら、心のきれいな障害者であれば、羨ましいという感情はわかず、尊敬してしまうに違いない。それで、其の恩恵にあやかりたいと、渡辺加奈子を訪ねてきたというわけだ。
「わかりました。では、それくらい強い意志があるんであれば、水穂さんと直接話しをしてみてください。」
と、ジョチさんは、滝川さんに、上がってもらう様に言った。そして、四畳半に彼女を通して、布団で眠っている水穂さんに、
「水穂さん、着物を分けてほしいという人が現れました。着られなくなった着物とか、そういうものはありませんか?」
と、声をかけた。水穂さんはすぐ目を覚まして、また布団の上に起きた。その時も、葵の葉を描いた、銘仙の着物を着ていた。水穂さんの顔がとてもきれいなので、滝川さんは、思わず、まあきれいと口にしてしまったくらいだ。
「素敵ですね、お着物がよくお似合いです。あの、銘仙の御着物で、いらない物がありましたら分けてほしいんです。このウォルドルフ人形に着せたいと思いまして。この人形、あたしの師匠である、渡辺加奈子先生が、作ったものなんですけど。」
と、滝川さんは、水穂さんにそういった。
「水穂さん覚えていらっしゃいませんか?あの、ここにも一時来ていらした、渡辺加奈子さんですよ。あのときも、ここでウォルドルフ人形を作ってましたよね。いやあ、人形作りは、天職だなんて、彼女は仰っていたじゃありませんか。覚えていらっしゃいませんか?」
ジョチさんは、できるだけにこやかに言った。
「ええ、覚えていますよ。渡辺加奈子さん。彼女は、暇さえあれば、人形を作ってました。いくら指をけがしても、針と糸を持っていたような女性でした。」
と、水穂さんは、小さい声で答えた。
「その彼女ですが、先日、亡くなったんです。偽装結婚に騙されて。それで、この人形は、渡辺先生が、生前最期に作ったものですが、そういうわけでもあるものですから、先生が、望んでいた銘仙の着物を着せてやるということを叶えてやりたいんです。水穂さんという方が、銘仙の着物をたくさん持っていらっしゃるというので、それなら分けてもらえるかなと思いまして、それで、お願いできますでしょうか?」
と、滝川さんは、一生懸命話した。
「僕からもお願いしたいです。やっぱり、これからいくらでも可能性があった女性ですし、その彼女の可能性を奪った犯人に反抗するためにも。」
とジョチさんも水穂さんに言った。ジョチさん自身も、そうしてもらいたかった。そうすれば、偏見が少し消えるのではないかと思ったのだ。
「正直なことを言えば、銘仙は、あまり良いものではありません。格が低いとも言われますし、貧しいものが着るものとか、部屋着に過ぎないなどのスティグマもあります。着用していれば、着物警察と言われる人に、其のようなものは人前できるなと、叱られることもあります。まあ、最も、着物を着ていれば必ずある話なんですけど、銘仙は、その頻度が多いようです。」
ジョチさんは、正直に銘仙が抱えている事情を言った。
「それに、銘仙の着物を日常的に着ているということは、一般的な身分より低かったということを示す証拠でもあるんです。そういうことから、好奇心で単に可愛いからとかそういう理由で着てもらいたくないです。」
と、水穂さんが、そういった。滝川さんは、不思議そうな顔をする。
「でも、今は、ちゃんと、誰でも平等だと憲法で保証されていますよね。昔は、そういうことはあったかもしれないけど、今は、そういうことはもう無いんじゃないかなと思うんですが、、、。」
多分、学校で、同和問題について習うこともあまりないし、水穂さんがどれだけ苦しんできたかということも、あまり知らないのだろう。こういうことは、日本の歴史の負の遺産として、ちゃんと教えなければならないのではないかと思うのだが。
「いえ、そんなことはありません。」
と、水穂さんはきっぱりといった。
「残念ですが、そういう差別は現在でもあります。」
水穂さんは、そう言いながら、疲れてしまったらしく少し咳き込んでしまった。ジョチさんが、もう横になりましょうか?と聞くと、水穂さんは、首を横に降った。
「水穂さん、大丈夫ですよ。きっと、わかってくれますよ。」
と、ジョチさんは、そういうのであるが、
「いえ。私、それだからこそ、人形に着せようと思います。そういうことがあったということを、人形に着せることによって教えてあげたいんです。あたし自身も知りませんでした。そういう低い身分の人がいた事。それは、絶対、無理解なままで終わらせたくないし。それに、そういう教材として、使われることは、人形も、渡辺先生も喜ぶのではないでしょうか?」
と、滝川さんは決断したように言った。
「待ってください!其のような使い方をされては、人形も可哀想だと、、、。」
水穂さんは、そういったのであるが、もう疲れて我慢できなかったらしく、咳き込んでしまった。そして水穂さんの口元から赤い内容物が出てきたので、もう横になりなさい、とジョチさんは水穂さんに言って、水穂さんを横にならせてあげた。
「大丈夫です。水穂さんのような人がいたことを、私達は、ちゃんと伝えていける人間になります。あたしたちだって、差別的に扱われたことありますし。ですから、着られなくなった銘仙の着物を一枚でもいいから、この子に着せてくれませんか?」
滝川さんは、もう一度水穂さんに言うが、水穂さんは黙って一つ頷いただけだった。
「ありがとうございます。どこにあるのか、持っていってもいいですか?」
と、彼女がそう言うと、
「はい。タンスの中に、穴が開いて着られなくなったのが。」
水穂さんは弱々しく言った。ジョチさんは、これですかと言って、タンスの引き出しを開けた。
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