唇
オダ 暁
唇
私が体験した人生で一番記憶に残ったキスの話をしようと思う。
キス…接吻…口づけ
いろいろな言い回しができるが、抱きしめたりセックスしたり、いろいろな愛情表現があるが、あれは私の心に染みた最高のキス・・・
私が渋谷の109でアドバイザーをしていた頃、ボランティア活動をしている男の友人がいた。真面目で良い青年だった。友達以上恋人未満。
ある時彼に頼まれたのだ、ボランティアやっているから今度手伝ってと。私は未経験だけど、とにかく承諾した、自信はないけど力になるならといいよと答えた。
「生まれつきや事故が原因の障害者と遊びにいくの」
と、彼は言った。そして私はボランティアに出向きSに会う。
Sは誕生の際の事故で脳に酸素がいかなかったのが原因の脳性まひだった。手足の力は脆弱だし、たどたどしい喋り方で顔面神経も麻痺してぎこちない表情だった。彼に初めて会った時の印象は異様に暗かったことを覚えている。ただ彼の髪はとてもサラサラで綺麗、顔だちもジャニーズ系のイケメンだった、脳性麻痺でさえなければ・・・
彼は私が嫌いなのかなと思ったけど、あとになって分かった。Sは自分が他人にどう映るかを恐れているのだ、おそらく、それまでの人生に様々な辛い出来事があったのだろう。
ボランティア活動は多岐に及んだ。台車を置いいてボーリングをしたり、極めて長考の麻雀をしたり、お弁当作って公園にピクニックに行ったり…映画なんかはトイレの世話だけで鑑賞しているだけだから楽だった。Sはとにかく物事の理解力はふつうだったし会話や動作に難があるだけで、あとは全て分かっているようだった。
大き過ぎる悲しみも辛さや苦しみを。
そしてわずかな喜びを。
しかし、腕力が弱いし動きが極端にスロー。でもボーリングはピンの角度を一生懸命見極めて、台車から落とす。麻雀も健常者の何倍も時間はかかるけど、ちゃんとゲームも出来る男性だった。
当時の彼は幾つだったのか?私や友人と同じくらいだったから忘れてしまったが20代半ばくらいと推定する。彼は生まれてから青春時代ずっと施設で暮らしたらしい。どうやって勉強したのだろうか、良い先生はいたのだろうか。家族は?といろいろ質問したかったけど、友人にも本人にも聞かなかったのだろう、記憶にないから。
愚かな私は、彼の心の叫びも分かることなく、ただ皮相的にボランティアして満足している自分が好きな偽善者だったのかもしれない。
友人Mの話をしよう。
彼は介護の仕事に従事して余暇はボランティア活動をしているナイスガイだった。角刈りで黒縁の眼鏡をかけてがっしりした体格をしていた。だから身障者のトイレ移動にはうってつけ。腕力もあるし細かな気遣いはできるし、頼りになるキャラクターだった。身障者からは絶大な人気があったから介護の仕事も若いながらチームリーダーを努めていた。
SはMになついていた、というか心を許していた。ボランティア活動はMが同行するから自主的に行くようになったようだ。過去のSは施設内にこもって外出も嫌々だったと聞く。家族は離散して別々の家庭を持ち、何から何まで不幸な経歴満載だった。だから面会者は少なく、しかし当たり前のように、ともかく多分生きがいも見つからないまま流されるように生きていた。
それでも、しだいにボランティア活動を楽しむようになった。はたから見たら、面白さが良くわからないが、スローなボーリングや長考麻雀を必死にとりくんでいた。そうするしかなかったのだろう。
ある時三人で公園にピクニックに遊びに行った。Mは腹下しして何度もトイレに通っていた。ゆうべ半額で買った牡蠣弁当に当たったらしい。私は皆のサンドイッチを作って持って行ったがそれでは足りないらしい。Mは大食いだ。
しかしイマイチ良くならないのですぐ近くの病院に歩いて行き、私はSと取り残された。
「Sを頼む、念の為に病院行くだけだから。食中毒だったらマズいからさ」
ふたりきりになった。
Sは端正な顔を歪めて、たどたどしい物言いで私に尋ねる。
「き・・み・・は・・M・・の・・か・・の・・じょ・・な・・の?」
唐突な質問だった。私は答えた。
「まさか~単なるお友達」
Sは更に質問してくる。
「つ・・き・・あっ・・て・・る・・ひ・・と・・は・・い・・る・・の?」
躊躇なく私は、かぶりを振った。
「いないよ、別に募集してないし」
ほんとうに本心だった。過去の経験上、面倒くさかった。
Sの質問はそれきり。
私もそんなやり取りは忘れていた。
Sは自分の話もしてきた。
「ぼ・・く・・は・・う・・ま・・れ・・た・・と・・き・・の・・じ・・こ・・で・・の・・う・・に・・さ・・ん・・そ・・が・・い・・か・・な・・かっ・・た」
黙って聞いていた。
「そ・・れ・・で・・か・・ら・・だ・・う・・ご・・か・・な・・く・・なっ・・た。お・・と・・う・・さ・・ん・・と・・お・・か・・あ・・さ・・ん・・わ・・か・・れ・・た。ぼ・・く・・に・・も・・あ・・い・・に」
そこまで喋ると彼は顔をさらに歪めて泣き出した。
そして涙をぬぐうこともできずに叫んだ。
「あ・・い・・に・・き・・て・・く・・れ・・な・・い!」
私は返答できなかった。彼の顔をハンカチで拭いながら声をようようかけた。
とんちんかんなセリフ。
「どうして会いにこないのかな、自分のこどもなのに」
彼の涙は止まらない。
「お・・と・・う・・さ・・ん・・お・・か・・あ・・さ・・ん・・べ・・つ・・の・・ひ・・と・・と・・けっ・・こ・・ん・・し・・た。こ・・ど・・も・・う・・ま・・れ。。た。ぼく・・く・・は・・じゃ・・ま・・。い・・ら・・な・・い・・こ・・ど・・も」
びっくりした。
彼の心から、あふれ出した闇を覗いたように感じた。
彼はいつまでも泣いていた。
「そんなことないよ、この世にいらない人なんていないよ」
返答はない。
私は黙って傍にいるしかなかった。
しばらくして笑顔でMは戻ってきた。
「大した事ないって、単なる食べ過ぎだってさ。下痢止め効くなー」
Mはぴょんぴょんスキップしている。
いつのまにかSはいつもの無表情な彼に戻っていた。
涙の痕跡はもう無い。
ただ目配せをして、Mに言わないで、と私に訴えかけてきた。
私は目でひそかに答えた。
あうん、の関係。
Mはまったく気付いていない。
辛くて重い出来事だったから何年たっても忘れられないんだ。
二十年以上たった今でも。
私たちは、そのあともいろんな所に出かけた。麻雀の際は特別メンバーだけど、たいてい三人で。Mに誘われるままボーリングや映画や公園に。Sの要望でもあるようだった。
私とMの関係は良いボランティア仲間。
私とSの関係はボランティアのヘルプする人とされる人。
そうだったはずだ。
ボランティアはじめて半年ほど経った秋のおわり、紅葉を散策しに三人で公園に行った。
まっ黄色のイチョウや真っ赤な紅葉が鮮やかな、空気が澄みきった日だった。
私は朝からせっせと色々な種類のおにぎりを作り、卵焼きやウインナー炒めなんか用意した。車いすをひいて東部屋のテーブルでランチタイム。
「もう腹痛なんか起こさないでよ、いっぱい用意してきたから」
「了解、食べ過ぎ注意注意!」
「お・・い・・し・・そ・・う・・」
Mは照れくさそうに笑って、おにぎりを口にほおおばると急いでSの食事を手伝いにかかる。Sが緩慢な動作で時間をかけて食べ終わると、次に、口の周りをお絞りでふいてやる。
二人の光景を見やりながら、のどかで平和だなあと思った。かって私は恋愛に疲れていた。
相手の男性は同い年。ニキビ面で、109のタワーみたいに細長いのっぽ、異常に嫉妬深く私の好きな芸能人にもやきもちを焼くありさま。
「だってさ、もし俺が芸能人の誰誰が好きな話をしたりしたら君は嫌じゃない?」と、大真面目に尋ねてくるのだ。
私はシラーと返答。
「何も思わないけど。だって向こうは芸能人じゃない、ぜんぜん接点ないし」
彼は興奮したように更に続ける。
「女みたいで俺とタイプが違うじゃないか、本当はそういう男が好きなんじゃないか?」
会話はこんな感じの平行線。温度差がありすぎてウンザリしていた。
最初の印象は爽やかで良いイメージだったのに。
嫉妬や束縛の鬼に変わってしまった、それも見当違いな相手にだ。もし身近な男性が対象だったら地獄のような修羅場になるだろう。
とことん嫌になって私は別れを切り出した。付き合いだして1年もたってなかった。
「俺が何をした?ただ君が好きなだけじゃないか・・
それとも別に男ができたのか?そうなんなんだろ」
彼は納得してくれない。まったく心当たりがないようだ。
「付き合うのは、もう疲れたの、変に嫉妬されるのも面倒だし。
他に男なんて誰もいないよ」
どんなに説明しても彼は引きさがらない。
「改めるから、別れるなんて言わないでくれよ」
彼が必死に訴えても私の心は冷めていた。度重なる身に思い至らないヤキモチ、それが愛の証とでも言うのか?付き合い始めのクリスマスイブ、彼から素敵なセーターを貰ったことがある。一生懸命選んだことがわか心のこもったプレゼント、あの日私は確かに感動した。この恋は永遠に続くとさえ感じた。でも幻想だった。
ともかく私はあっという間に彼から離れた。彼からの復縁要請も無視した。
冷めた心は戻らない。
事態を放置していたら、とどめのように郵便物が送られてきた。
純愛路線の小説や漫画。
題名は「愛と死」か「永遠の愛」だったかな?
こんどこそ氷点下に私の心は冷めきった。氷点下!出会いの頃の初々しい気持ちはどこにいったのか。だから永遠の愛だの恋だの信じてないのだ。そういえば彼はフレンチ・キスする人だったな、無機質なキス・・・夜逃げするように引っ越ししてジエンド。彼はもうストーカー行為はしてこなかった。それが私の黒歴史だ。
昼食後、Sを多目的トイレまで誘導して私はMと二人で前で出てくるのを待った。
その合間の出来事。
「あのさ・・半年以上良く手伝ってくれてありがとう」
「いいえ私も楽しんでいるから大丈夫、休みは暇だし。Sとも気心わかってきたし」
「Sも喜んでいるよ、なんかあいつ君のことが好きみたいだぜ。話すことは君の事ばかり、時々麻雀するでしょ、君が来ない日は特にだよ。あとは今日みたいな時に別れた後とか」
「え・・そうなの?」
「でも君も困るよね、告白されても無理でしょう?
「告白?」
私は思いがけない言葉に仰天してしまった。
Sのことを恋愛相手だと意識したことはなかった。それはMも同様、友だちというかボランティア仲間それ以上でも以下でもなかった。
「正直に言うよ、僕は・・いや、君が一緒にボランティアやってくれて嬉しくて・・たまには二人だけでデートしたいんだ、ダメかな?」
Mに元カレと同じ匂いをかいだ。なんか妙に自信満々、イエスの返答以外ないと思っているようだ。誤解させた自分も悪かった。
「クリスマスとか、お正月とか・・ボランティアから離れた場所で二人きりで会いたいんだよ」
その時トイレの内側から終わりの合図のブザーが鳴った。
「すぐ行くよー待ってて」
Mは踵を返し、急いでSの世話をしにトイレに走った。
私は取り残され、いろいろ考えてみたが結論は早かった。
今は誰とも個人的に付き合う気持ちはない。距離を置いて細く長く付き合う、それがあの頃の私の信条。本当の相手に出会うまでは・・と恋愛に臆病というか消極的になっていた。
その半面、モテ期間?と驚いている自分もいた。それからあとのボランティア活動でも私の態度は変わらなかったと思う。Mに対して男性としての興味が少なかったから。返答を無理に求めてはこなかった、視線がどろりと粘っこくなってはきたけれど。
もうすぐクリスマス。
今年最後の公園散策の日だった。
ロードはクリスマスツリーやクリスマスイルミネーションで彩られ、前に来た時より華やかになっている。
いつものように散歩をしたりランチを食べたり・・・
Mはランチのあと、いつものようにトイレに行った。彼は胃腸が弱い。
「少し時間かかるから・・Sもあとで連れて行くから」
「だ・・い・・じょ・・ぶ・・。ゆっ・・く・・り」
「お茶でも飲んでいるわ」
私はSと何度も使っている東屋で待った。
Sはお茶を不器用にすすりながら聞いてきた。
「く・・り・・す・・ま・・す・・。か・・れ・・と・・ど・・こ・・か・・い・・く・・の?」
「え・・なんで?どこにも行く予定ないよ」
以前、多目的トイレの前でのMとの問答を聞かれたのだろう、と合点した。
私はSの口周りに汚れが取り切れてないのに気付いた。長椅子から立ち上がり、正面に座っている車椅子の彼のとこに駆け寄る。そして顔をウエットティッシュで拭きだした。
彼の顔と私の顔の高さが至近距離になる。
目があった。
いきなり情熱的なキス。
あたたかな濃厚なキス。
唇が離れた後、私たちはしばし無言だった。
どうすれば良いかわからなかった。
「ご・・め・・ん・・」消え入りそうな声のS。
「ううん」私は驚いたが平気だった、意外としたたかな自分に驚いた。
「ぼ・・く・・は・・う・・で・・の・・ち・・か・・ら・・よ・・わ・・い・・か・・ら・・」
彼は言葉をぼそぼそと紡ぎだす。
「き・・み・・を・・だ・・き・・し・・め・・ら・・れ・・な・・い」
話は続く。
「き・・み・・に・・き・・す・・し・・た・・かっ・・た。は・・じ・・め・・て・・の・・き・・す・・。ぼ・・く・・に・・は・・く・・ち・・び・・る・・し・・か・・な・・い・・か・・ら」
今にも泣き出しそうなSの顔。
ガンガン心に染み入ってくるSの言葉。
私はようやく声を発した。
「何でもないよ・・誰にも言わないから・・二人の秘密」
「ひ・・み・・つ・・?」
「ええ、二人だけの秘密」
内心、嫌じゃなかった。どこか彼が好きだったのだ、おそらくMよりも。障害者と健常者の垣根を越えて。でもどうしても勇気を持てなかった。
Mがトイレから帰ってきてSとのランデブーは終わった。
最初で最後の・・・
その日が彼らと会った最後だったから。
Sは体調を崩したとかで、以来私の前に現れることはなかった。
もしかしたら私からの誘いを待っていたのかもしれない。
同時にMとの付き合いも自然消滅、ゆっくりなペースで。
ただ一度きりのキスを残してSは消えた。
私の身体の芯に
ちっぽけなタトゥーのような
灯を刻印して。
遥か昔の淡い恋の物語です。
(おわり)
唇 オダ 暁 @odaakatuki
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