ハロー! わたしのスヴィータ!

山南こはる

本編

 彼女を一目見た時、なんてステキな女の子なんだろう、と思った。


 英語が得意だった。それだけの理由で、高校は国際人文科を選んだ。うちの学校の国際科は地域でも有名で、クラスの半分くらいが外国人だった。出席番号は五十音順でも生年月日順でもなく、ファーストネームのアルファベット順で、だからスヴェトラーナ・アレクセーエヴナ・コヴァリスカヤはとうぜんこのわたし、吉村鈴香スズカ・ヨシムラの前のひとつ前である。


 長ったらしい彼女のフルネームなんか、もちろんクラスの誰ひとりとして覚えていない。たぶん、わたしだけが例外で、それでも彼女の名前をアルファベットできちんと綴る自信はどこにもない。彼女のことを、みんなスヴィータと呼んだし、彼女自身もそれを望んだ。スヴィータ。ロシア人のスヴィータ。入学式のその日、後ろの席に座る彼女の長くて美しい髪が、わたしの目には、宝石か何かみたいに輝いて見えた。



「ねえ、スヴィータ。これ、なんて読むの?」

「これはね……」


 わたしとスヴィータが仲良くなるのに、さして長い時間はかからなかった。国際科の英語はめちゃくちゃ難しくて、授業に着いていくのがものすごく大変だった。

 国際科の雰囲気は独特で、まず「おはよう」とか「こんにちは」とか、日本語で言ってはいけない。英語か、あるいは他の言語で言わなければならない。「グッドモーニング、スヴィータ」から毎朝がはじまり、「グッバイ、スヴィータ」で一日が終わる。休みの日にもついついそのクセが出て、思わず「ハロー、スヴィータ」とか言って、ここは学校じゃないのだからと、映画館の前で大笑いした。


「スズカ、ここは学校じゃないのよ」

「だね。ヘイ! カモン、スヴィータ! ハウアーユー?」


 そうしてもう一回、ふたりでゲラゲラ笑って、チケットを買った。


 とにかく、わたしはこのスヴィータことスヴェトラーナ・アレクセーエヴナ・コヴァリスカヤが大好きだった。きれいで、頭が良くて、そして優しくて。

 難しいテスト、着いていくのがやっとの授業。わたしが苦戦している時に、スヴィータはいつも目の前で微笑んでいて、ちょっとロシア訛りの入った発音で、わたしが分からない英単語を教えてくれるのだ。


 スヴィータ。今日、スタバ行かない?

 スヴィータ。明日ヒマなら遊ばない?

 ねえ、スヴィータ。わたしたち、親友だよね?


 忙しくとも楽しい学校生活。わたしのとなりには、いつもスヴィータがいた。ちょっと人見知りで恥ずかしがり屋で、引っ込み思案で弱気なところのあるスヴィータ。少し茶色い髪と、灰色がかった青い瞳。それが太陽の光の下では、透き通った金色と青に見えるのだ。たぶんそれを知っているのは、この学校でわたしひとりだけで、そしてそんなわたしの前だけでは、彼女はほんものの笑顔を浮かべてくれる。人見知りで恥ずかしがり屋で引っ込み思案で弱気なスヴィータが見せてくれる、ほんものの明るい笑顔。それを見られるのはきっと、世界でわたしただひとり。

 赤点だって落第だって、怖くない。だけどスヴィータの笑顔が見られなくなるのはとても怖くて、だからあの日、彼女の笑顔が消えたあの日のことを、わたしはきっと、忘れることはないだろう。


 ロシアが、ウクライナに侵攻した。

 スヴェトラーナ・アレクセーエヴナ・コヴァリスカヤの祖国であるロシアが、国際社会の敵に回ったのだ。


     ※


 戦争はよくない。

 そんなこと、今どき幼稚園児だって分かっている。つまり誰しもが同じことを言うのであって、誰しもが同じことを言うのであれば、とうぜん、その中には大きな声を上げる人たちがいる。


 大きなデモが、渋谷で起きた。しかし教室の中でもっぱら話題になったのは、うちの学校の生徒がデモに参加したらしい、ということだ。

 その子は一年生の女の子で、ウクライナ人らしい。

 彼女だけではない。彼女の友人が、クラスメイトが、こぞりこぞって渋谷に行ったらしい。反戦のメッセージが書かれたプラカード。彼女は他人が主催したデモに参加するだけでは飽き足らず、放課後、地元の駅前でもプラカードを掲げているらしい。彼女の友人が持つ募金箱にはけっこうな額が集まり、しかるべき機関へと送金されたと、校内新聞に書かれていた。


 テレビの向こうのウクライナが、ひとりの下級生の形をして、耳に入ってくる。それでもわたしにはどこか他人事みたいに感じられて、それだから風の流れが変わったことに、すぐには気づかなかった。


 反戦が、いつの間にか反ロシアへと変わっていた。ちょっとやんちゃな子たちが、掲示板にプーチンの写真を貼って、その上から大きな赤いバッテンを書いた。国際科のある国際的な学校は、あっという間に反ロシア主義に塗り替えられた。そしてわたしのクラスの中では、スヴィータこそ、ロシアそのものだった。



 戦争もいじめも、人間同士の争いという点では、何も変わらない。ただ規模が大きいか小さいかの違いだけで。そこに明確な攻撃や嫌がらせがあったわけではないし、彼女はもちろん、孤立していたわけではなかった。彼女にはわたしがいる。味方としては幾分頼りなかったかもしれないけれど。頼りにならないけれど間違いなく、彼女はひとりではなかった。


 それでもスヴィータは早退や遅刻するようになり、ロシアがサポリージャ原発を攻撃した金曜日以降、一度も登校していない。


     ※


 グッドモーニング、スヴィータ!

 ハロー、スヴィータ!

 また明日ね。グッバイ、スヴィータ!


 そう言わなくなってから、何日経っただろう。毎日、彼女の住むマンションの前まで行ったけれど、チャイムを鳴らす勇気はなかった。


 ロシアがウクライナに侵攻した。あの日から、ロシアといえば、悪い話しか出てこない。下級生のウクライナ少女の抗議活動はますます過激化していて、今は学校中を巻き込んでいる。校内の至るところに、青と黄色のモチーフが貼り付けられて、女子の間では、青と黄色のリボンで作ったコサージュをカバンにつけるのが流行っている。屋上から掲げられた横断幕は、青と黄色のストライプになった。校内が青と黄色の暴力的な正義に染まってから、スヴィータは一度も学校に来ていない。


「……」


 ハロー、スヴィータ! 今何してるの?

 もうしばらく、彼女と話をしていないし、声も聞いていない。LINEの既読は付くけれど、文章はおろか、スタンプすら帰ってこない。

 画面の向こうの彼女を想う。どんなことを送ればいいのか分からない。元気? 大丈夫? 学校来ないの? そんな安価な励まし、たぶん今の彼女には、すべて欲しくないもののはずで、


『スタバの新作見た?』

『桜のフラペチーノ、終わらないうちに、飲みに行こうよ』


 差し障りのない文面。やがて既読マークが付くけれど、いくら待てども返事は返ってこない。


 既読無視。

 五分待って、LINEを閉じる。


 もやもやしてむしゃくしゃして、ひとりでミスドに行って、新作の桜味ドーナッツをふたつ食べた。その間にもLINEを確認するけれど、スヴィータから返事は来ない。ニュース、新聞、インターネット。世界中の偉い政治家が、有名人が、あるいは市民が、ロシアの行いを、あるいはロシアそのものを否定している。

 スヴィータはこれらの情報を、どんな思いで聞いているのだろう。ミスドのテーブル、向かい側の空席を見つめる。彼女のいない教室、彼女のいない毎日。そして彼女のいない、放課後の時間。グッドモーニング、スヴィータ! ハロー、スヴィータ! もう何日、彼女の顔を見ていないだろう。


 スヴィータに会いたい。

 会って話をしたい。それが無理ならば、せめて顔を見ていない。


 そう思うと、いても立ってもいられなくなった。

 家に行こう、今日こそ勇気を持って、チャイムを押そう。ドーナッツのトレーを返却する。手土産用に、桜味の新作ドーナッツを四つ、全種類買って袋に詰めてもらう。

 桜味のフラペチーノ、桜味のドーナッツ。あと二、三週間もすれば、きっと満開の桜が見られるだろう。


 明るい光の日曜日、その桜の下で、遊びに行くための待ち合わせ。

 ハロー、スヴィータ!

 学校にいる時のクセであいさつして、またふたりで笑いたいのだ。


     ※


 チャイムを押す。


 こんなちっぽけな動作に、ここまでの勇気を必要としたことなんて、今までなかったと思う。


 鉄扉の向こう、かすかな気配を感じた。自分の気のせいかもしれない。日当たりの悪いマンションの玄関、無機質な鉄扉が、自分とスヴィータの間にとてつもない距離を作って立ちはだかっている。


「スヴィータ、いる?」


 沈黙。ドアスコープをのぞく。彼女のくすんだ青い瞳が、こちらをのぞいていることを信じて。


「あのね、スヴィータ。わたし、スヴィータに会いたくて……」


 緊張で、胸がバクバクする。手のひらに汗がにじみ出る。ミスドの手提げ袋が、皮膚にベタベタと張りつく。


「あ、いや、無理にとは言わないんだ。でも、ちょっとさ。会うのが嫌なら、せめて話くらいは、って思って」


 声だけなら電話だってよかったはずなのに。それでもこうやって家まで来たのは、やっぱりスヴィータに会いたいからで、


「スヴィータ。今日ね、ミスド行ってきたの。桜のドーナッツ、買ってきたの。今度、スタバの新作も、一緒に飲みに行きたいな、って」


 違う、そんなこと言いに来たんじゃない。言いたいことはたくさんあった。それでもほんとうに言いたいことはひとつだけ。今のロシアは国際的に悪いかもしれないけれど、それは政治家とか偉い人の話で、スヴィータが悪いわけではないのだ。スヴィータ、あなたはロシア人かもしれない。しかし、あなた自身がロシアそのものではないのだと、そわな当たり前で簡単なことを伝えたいだけなのに、言葉が空回りして、ちっとも出てこない。


 冷たくて暗い鉄扉に向かって話しかける。


「ええと、さ。何が言いたいかっていうと……。わたしはさ、スヴィータに会いたくて、スヴィータのことがさ、大好きで」


 ミスドの袋が、くしゃっと音を立てる。


「学校とか国際問題とか、そんなこと、わたしには、関係なくて……」


 関係ない、なんてことはないはずなのに。ネットのニュース記事が、テレビに映るロシアの偉い政治家たちが、破壊されたウクライナの街並みが、若い母親に手を引かれている、幼い避難民の子どもの姿が、

 ものすごく遠くにあるはずの世界が、引きこもったスヴィータという明確な形として現実に存在していて、


「……ごめん、なんか、ごちゃごちゃしちゃってさ。わたし、バカだからさ。うまく言えない」


 学校に来てほしい?


 いいや、違う。今はただ、会いたいのだ。会って話して一緒にドーナッツを食べて、そしてこの思いを届けたいのだ。自分たち個人の世界に、ロシアだのウクライナだの、そんな国際的なことは、いっさい関係ないのだ、と。わたしにとって、何よりもたいせつなのはあなた。テレビの向こうの戦争よりも、知らない避難民の人たちよりも、わたしはわたしの友だちの、スヴィータが大事。


 スヴィータはロシア人だけど、ロシアそのものではない。


 スヴィータ、あなたはあなた。あなたを救うためならば、わたしは海の向こうの偉い政治家たちだって、ぶん殴りに行ってやる。

 それが今、うまく言葉にできない、わたしの思い。


「……ごめん、わけ分かんないこと言っちゃって。……また来るよ。ドーナッツ、ドアノブにかけておくから」


 扉の向こう、スヴィータがいたのかいなかったのか。それは最後まで、分からなかった。


     ※


 マンションの敷地内には桜の木があって、まだ花もつぼみもなかったけれど、枝の先がほんの少しだけ、ピンク色に染まっているように見えた。学校でもテレビでも、今の社会にはいたるところに青と黄色があふれているから、他の色を見るのは久しぶりな気がした。


「スズカ!」


 そしてその声を、聞くのも、もちろん久しぶりなはずで、

 ほんの数週間前までは聞くのが当たり前だった声が、ものすごく懐かしい温もりを伴って、胸の中に響き渡る。


「……あ」


 スヴィータ。


 白いネグリジェ姿のままのスヴィータが、人形みたいな髪と目のスヴィータが、そこに立っている。


「スヴィータ……」


 会いたかった。ずっと会って抱きしめて、話をしたかった。世界中が青と黄色に染まっているけれど、自分たちの世界はただ、もうすぐ咲くはずの桜の色だけがあるだけだ。わたしとあなたの間に、国境も戦争もない。あるのは、わたしとあなただけ。


 桜色の世界の中で、白いネグリジェ姿のスヴィータは、いつもと同じように、恥ずかしそうにはにかんでいる。春の気配を帯びた風が、彼女の髪を揺らす。太陽の光に透けて、彼女の髪が、瞳が、わたししか知らない美しい色にかがやいている。


 あなたにもう一度会えたなら、最初にこう言おうと、決めていたのだ。


「ハロー、スヴィータ!」


 ハロー! ハロー! わたしのスヴィータ!

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