第14話

 石畳みの道を黒い衣服に身を包んだ男と黒い犬が連れだって歩いていく。

 夜の街らしく、女は道に立って意味深な視線を向け、男たちは今宵の相手を探して値踏みする。

そんな通りに立つ建物と建物の入り組んだ小道を進んでいくと、今までの喧騒が嘘のように静まり返り、まるで死人のように寂れていた。

広い街では貧富の差がはっきりと出てしまい、そういうところは自然と人の足を遠くものだ。

「来たわね」

 暗闇から女の艶やかな声が木霊する。

「あなたが私の依頼を引き受けてくださった方ね」

 警戒してなのか姿が見えない。

「あの男の屋敷は、いまや賊がはいったと大騒ぎだわ」

 鷹揚に言う女の声は、どこか甘くからかうような色が含まれていた。

 暗闇から黒い手が伸びて、男と犬を手招いた。

「さぁ、約束のものを」

「ここにある」

 男が両手に抱える壷を差し出すと、闇から伸びた黒い両手がそれを奪うように掴んだ。そのときになって、ようやく声の主の姿がはっきりと男の双方の目に捕らえた。

しかし、頭からすっぽりとフードに身を覆ってその容貌ははっきりと見えない。

 女はまず壷が本物かと確認するようにしげしげと見つめ、蓋を開けて中を確認すると、すぐさまに蓋を閉めた。

「中を、見ましたか?」

「いや」

「賢明な男は好きです」

 男の回答に女性はかたい口調で答えた。

 女の鋭い目はまるで燃える松明のように、鮮やかに、はっとするほど強い色合いをもって男を睨みつけていた。女の全身から放たれる殺気に男の足元にいる犬が唸り声をあげた。

いつでも女の愚かな行動に出た場合、その細い首に噛み付こうという態勢だ。その唸り声に女は、視線を落とし、はじめて目元を緩めた。

はっとするほどに美しい微笑に犬は唸るのを忘れ、見入った。

「お前の主人を私は殺しません」

 女がゆっくりと離れた。壺を持つ左手、そして右手には小さな円を描いたようなナイフが握られていた。

「中身を見たときは、その横腹にナイフを突き刺し、死のキスを施したでしょうが」

「・・・・・・信用するのか」

「お前の目は嘘はいっていないようです。非礼は詫びましょう、恩人よ」

 そういうと女は右手のナイフをしまうと、そっと男の頬に手を伸ばして触れた。ゆっくりと女が顔をあげると、フードがするりと剥がれて、長く黒い髪がそこからたらりと零れ落ちた。

女は気にすることもなく、男の唇に唇を重ねた。

 女はゆっくりと顔を離し、男の頬に触れる手をおろした。

 はっとするほど凜々しい顔立ちに、赤い瞳、艶やかな唇。女が微笑めばほとんどの者は彼女に夢中になるだろう美貌。

「私の救いであり、希望を持ちかえったあなたは恩人です」

 女はフードを手にとると頭から再びかぶりなおした。

「仕事をしただけだ」

「よい回答です。さぁ受け取りなさい。あなたのように用心深い相手は信用できます」

 女の右手が今度は麻袋を差し出しだしたのに男はそれを無言で受け取った。ずっとりとした重みを男は手に覚え、中を改めようとはしなかった。

 女は壷を両手で抱えると背を向けた。

「あなたには、その金と私の恩を」

 その言葉だけを残して女は再び深い闇の中へと消えていった。たった数歩歩いただけだというのに、女の姿はどこにもなくなっていた。

 男の足元にいた黒い犬が甘えるように鳴いた。男は受け取った報酬を懐にしまい、片手で犬の頭を撫でた。

「すまんな、イチ」

 イチは生暖かい舌を出して男の手を軽く嘗めた。

「そろそろ出てこい」

 呼ばれて路地の裏からサザノメが渋い顔をして近づいてきた。

「あの女、俺が見張っているのも気がついてた」

「そのようだな」

「……あとちゅーしてたな」

 サザノメがむっとした顔でエレツを睨みつけた。

「いきなりだったからな」

「ふーん」

 サザノメは肩をすくめたあと、尻尾をふり自分にすりよってくるイチに視線を向けた。

 犯罪まがいの依頼は、その依頼主との交渉のときも危険がつきものだ。特に危険が高いだけに負い目から仕事をした者を殺そうとする者は少なからずある。サザノメは隠れて見張るのにかわりに、イチにエレツの護衛を命じた。

 異世界まで付いて来た彼女は、戦いのときは獰猛さを発揮していたが、今は親と慕うサザノメの役に立てていることを嬉しげに尻尾をふっている。

 サザノメは優しくイチの頭を撫でてやり、背中を軽く叩いた。そうすると、イチはすぐさまにサザノメの影に飛び込んで、消えてしまった。

「すごいな」

 エレツは不思議そうにサザノメの影をまじまじと見た。

「たいしたことないさ。あと、傷は大丈夫なのか」

「宿に帰ったとき治癒すればいい」

 エレツの言葉にサザノメは眉を顰めた。

 エレツの腕の傷は、ここに来る前に衣できつくまきつけて止血しただけだ。肉まで裂くような傷は、激痛をずっと放っているはずなのにエレツは無表情で感情が読み取れない。

 サザノメは仕方なく肩を竦めた。


 宿に帰り、部屋にはいると、エレツは疲れたように床に座った。外にいたときは気がつかなかったが、額には大粒の汗が浮かんでいた。

「やせ我慢したな。お前」

 サザノメが吐き捨てると、エレツの傷ついた腕を乱暴にとった。痛みにエレツが顔をしかめるのも気にせず、サザノメは腕に巻かれた衣をとると、血の滲んだ腕に目を向け、口を開いて舌でぺろりと傷を嘗めた。

「……っ」

「もうちょっと我慢しな」

 サザノメはそれだけいうと傷を嘗め、血を啜った。

 そうしているとエレツは、腕から痛みが引いていくのに驚き、サザノメが見た。

 サザノメは自分の血に濡れた口元を腕でごしごしと拭った。

「まだ痛みはあると思うが、それは我慢してくれ」

「すごいな。ほとんど感じない」

「まぁね」

 サザノメはそういうと人の姿から獣の姿へと変わり、エレツの膝元に身を置いた。こうしたほうがエレツに甘えられるということをサザノメは既に心得ていた。なによりも、彼が獣である自分の頭を撫でるととても落ち着くというのも。

 サザノメが甘えてくるのにエレツは無意識に左手でそのふかふかの毛を撫でていた。

「あの黒い球」

「ん」

「あれって魔法?」

「魔法?」

 質問して逆に聞き返されたのにサザノメは困った。この世界には魔法という言葉がないらしい。

 そういえば、この世界では忌むべき不吉なものにたいして「魔」という言葉を使っている。魔法というのは、「魔」を使う意味があるので、この世界では使うはずのない言葉だろう。

「ほら、あの黒い」

「ああ、精霊術だな」

 それでようやくエレツは質問の意味を理解して応えた。

「精霊術?」

「更の力を借りている」

 エレツの言葉にサザノメは納得した。この世界には魔法という概念はないが、精霊がサザノメの知る魔法というものの力を持っているらしい。

「本来は契約してないと使えないものなんだがな」

「へー」

「精霊の力によって、使える力は弱強も異なるが、俺の場合は更の気持ち次第だな……あとで褒美を与えなくてはいけない」

「褒美?」

「力を借りたからな」

「ふぅん。めんどくせぇ」

「契約してもいないのに力を使わせてくれているんだ。文句はいえんさ」

「ふーん」

「それがどうかしたか?」

「いや、まさか、投げて俺にとってこいとかいうんじゃないだろうなーと思ってさ、あの黒い球を」

「するなら、棒切れでするさ」

「俺、いまのところ運動は必要ないぜ」

 冗談を真顔で言い返されてサザノメはくくっと喉の奥で笑った。

「いつ動かなくなるんだろうな」

「そりゃ嫌味かよ」

 サザノメがエレツを睨みつけたあと、あたたかい舌で頬を嘗めた。

「それとも、この姿で誘っているのか?」

「俺は別に構わんが」

 エレツがふっと笑って言い返すのにサザノメが驚いたように耳をぴんと立てて黄金色の瞳が、じっと疑う眼差しを向けて、すぐに目元を緩めた。

「なら、キスして誘ってみろよ」

「……噛むなよ?」

 エレツがサザノメの背に右手をまわして、左手でサザノメの顎を掴かんで上を向けると、冷たい鼻先にキスを落とした。サザノメが驚いたように目を見開いたあと、嬉しそうに尻尾を振った。

「噛み付くことはないよ。……キスは好きだな」

「そうか。……好きなときにしてやるさ」

「エレツはないのか」

 サザノメの問いにエレツは首を傾げた。

「俺にしてほしいこととか、好きなこととか」

「俺は……あたたかければいい」

「なんだよ、それ、つまりは、誰でもいいから傍にいればいいってことかよ」

「何を言ってる。隣に人がいても寒いことだってある。誰でもいいわけではない」

 苦笑いを零しながらエレツはサザノメのふわふわの毛を撫でた。サザノメが心地よさそうに目を細めて身を委ねた。

 サザノメは、エレツを常に暖かくしてくれる、今では唯一の存在だ。

 サザノメの安堵とした姿を見ると、自然とエレツも落ち着くことが出来た。

 自分の傍らにいるときは、こうも穏やかだというのに、今夜は敵を目の前に彼は、その鋭い牙をむき出して敵に襲い掛かった。逞しい肢体は見せかけでけではないことは、旅の中で彼の背に乗せてもらってわかっていたことだ。またじゃれつくようにして何度か、その逞しい肉体に組み敷かれたこともある。その気になれば馬くらい容易く殺すことのできる彼のじゃれつきは大の男一人くらいは容易く押し倒してしまう。

 サザノメの牙は鋭い刃と同じだけの威力があるがエレツは怖いとは思わない。たとえ自分以外に牙を向ける、今夜の彼を見ても、エレツにはサザノメに対して恐怖は一切覚えなかった。

 サザノメは自分を必ず守ってくれる存在だ。

「俺、馬鹿だから、もっとストレートに言ってくれないとわからないよ」

「……傍にいてくれ。サザノメ。俺に向けられる刃を退けてくれ」

「今日みたいなのでよければ、いつだって。エレツを殺すのは俺だしな」

「ああ、それでいい」

 自分を殺すのは、この膝の上にいる黒い獣なのだ。

 口約束を安易に信じるというのは、難しい。

 確信もなく、信用して生きていけるほどに彼は子供ではなかった。よくも悪くも、そうした生き方を強いられてきた。

 サザノメの傍らはエレツにとってはあたたかいものだ。だが、それがずっと在るとは限らない。愛した者が目の前から突然と消えて行くこともある。

 エレツは何かに縋るには、多くを失いすぎて、求めるには自分の罪の重さを知っていた。知っていながら、支えがないと生きてはいけない。人は弱い生き物だ。

サザノメのことには深く考えていなかった。考えないようにしていた。

「なぁ、いつ死ぬの?」

 サザノメの問いは、ナイフのように鋭い。

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黒い犬と血の剣 北野かほり @3tl

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