サンパルト境町904号室
××××
志朗は普段よりもゆっくりと904号室を目指した。まだ物の位置がずれているような感覚がある。まったく本調子とはいかないようだ。体の重心もゆらゆらとブレている気がする。
(家に帰ったら電灯を点けて――いや、点けない。普段やらないことは今日もやらない。こっちはお前なんか気にしていないって態度でいないと駄目だ。普段と同じことをやって、同じように一日を終える。時間が経てば朝が来るわけだし)
これからやるべきことを頭の中で呟きながら904号室の前に立つ。カードキーを取り出して開錠し、玄関のドアを開ける。
「おかえりなさい」
無人の暗い部屋の中から、女の声がした。
志朗は声に応えず、足早に応接室に入ると手探りで巻物を持ち出した。リビングでスリッパの足音がする。応接室を出て玄関に向かう途中で、その足音は突然ぱたぱたぱたぱたと背後に迫ってきた。
志朗は駆け出したくなるのを堪えて靴を履き、最後に鬼頭からもらった人形を肩越しに放り投げた。玄関を出、ドアを閉めて鍵をかける。施錠される音を聞きながら、「しまった、財布持って出ればよかった」とぼやいてぐったりと息を吐いた。
だが、部屋に戻ろうとはしなかった。ドアから離れ、スマートフォンを取り出すと電話をかけ始めた。
「もしもし、二階堂くんまだ管理人室? 時間いい? あのね、ダメです。904号室。そう、ダメになっちゃった。なるはやで元の部屋に引っ越していい? 悪いけど。はい」
志朗は電話を切る。ポケットにスマートフォンを仕舞い、壁に立てかけておいた白杖を持ち直し、巻物を剥き出しのまま左手に持って、エレベーターの方に向かって歩き出す。駅前のビジネスホテルなら、確かスマホ決済が利用できたはずだ――もう当分904号室で夜は過ごせない。
再びここに住むまでには何日か、何週間か、ひょっとすると何年もかかるかもしれない。それまでは手の届くギリギリの場所から、少しずつ削っていくしかない。
少なくとも自分にはそれしか手段がない、と志朗は知っている。
背後から何かに見つめられているような気がしたが、志朗は無視した。一階から上がってきた無人のエレベーターに乗り込むと、彼は九階を後にした。
〈了〉
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