第十七話

 二階堂は正午前に904号室を訪れた。

「シロさあぁん! そんなに危なくないって話は何だったんすかぁ!」

「ごめんねぇ二階堂くん。おつかれ」

「何なんすかあれ……ていうかシロさんも顔死んでないすか? やばくないすか?」

 黒木が事情を説明すると、二階堂はやはり「あのどーんって鬼頭さん!?」と驚いた。志朗がぐったりしているせいで怒りが半減したらしい二階堂は、「まぁ~アレだ、無事だったからいいすよ」と言って、若干不満そうに口をつぐんだ。

「いやぁ、二階堂くんも大活躍じゃったね」

 志朗は二階堂を手招きし、ごく近くで「動くな」と呟くと、いつものように肩から何かをつまんで捨てるような動作をした。例によってなにかくっついていたらしい。

「またちょっと残ってるな……黒木くん、ゆるぼ持ってきてくれる?」

「要るんですか? きれいに見えますが」

「いやぁ、904号室って前より一階に近いからさ。時々こうやってつまんで捨てたやつが消えないで残るんだよね。そのうちそこまでの影響はなくなると思うけど」

「じゃ、その残ったのをゆるぼで吸ってるんですか!?」

 部屋を出ようとした黒木は、思わず足を止めて振り返った。

「えっ、まず吸えるんですか? 普通の掃除機ですよね?」

「普通に買ったよくあるメーカー正規品だよ。まぁ、期待してた量の七割くらいは吸ってくれるかな」

「結構吸うんだ……」

「しょっちゅう止まっちゃうけどねぇ。昔のよみごは箒で掃き出してたんだけど」

「なんか、それとロボット掃除機ってかなり違う気がするんですが……」

 それでも、よみごの志朗がそう言うのならそうなのだろう。何もわからない黒木には、そう思うよりほかにない。

 充電を終えていたゆるぼは、応接室に連れてこられるなり、塵ひとつないように見える床の上を元気に滑り出した。

「こいつ、変なもの吸い続けて大丈夫すか? 変異とかしない?」

 二階堂がゆるぼを指さす。志朗は「どうかなぁ」と答えて笑った。

「ところでその様子だと、桃花ちゃんは無事に抜けたらしいね」

「そっすね。鬼頭さんが抜いてくれたんすけど、オレも運び屋として役目をまっとうした感じっすわ。いやー、めっちゃ感動しちゃった」

「これから大変でしょうね」

 黒木の口から、ぽろっとその言葉が洩れた。二階堂がこちらを振り向き、「ま、そっすよね」と言った。

「だって体は十三歳だもん。そりゃ大変っすよ〜。ていうかまず寝たきりだったから、立ったり座ったりするところからリハビリらしいっす。いやー、どうなんのかな。学校とか色々――でもやっぱ、戻ってよかったっすよね」

「……ですよね」

「っすよ! 内藤さんもすげぇ喜んでたし。あの人すごいっすよ。覚悟の決まり方がハンパないもん」

 美苗は、落ち着いたら改めて挨拶にくるという。桃花の退院がいつになるかはわからないが、いつか顔を見て挨拶させたいと言っていたらしい。

「あと鬼頭さんが心配してましたよ、シロさんのこと」

「あぁ、ボク倒れてたからね。あとで連絡入れなきゃ」

「それもですけど、今回のことは獣の巣をいきなり突っついたようなものだから、日頃からヘイト集めてる志朗さんとこに影響があるかもしれないって」

「鬼頭さん、そんな心配してくれたんだ。優しいねぇ――まぁ、その時はその時ですよ」

 ゆるぼがエラー音を鳴らし始めた。志朗が立ち上がったが、まだ本調子ではないらしくすぐにまた座り直して、「これ一日残るなぁ」とぼやいた。

 通常業務がある、というので二階堂は管理人室に戻った。が、少しして自分のスマートフォンを印籠のように掲げながら戻ってきた。

「ちょっ、ちょっ聞いてください! スピーカーにするんで」

 電話の向こうから『ほら、桃花』と美苗の声がした。それに続いて、舌足らずで掠れた女の子の声が、それでも確かに、

『ありがとう』

 と言ったのを、黒木は聞いた。

「もぉ〜、よがっだ~」

 二階堂が鼻をすすり出した。


 午後からは通常通りに来客が入り、志朗は何人かの常連に体調を心配されながらその日の予定を終えた。

 午後六時過ぎ、鬼頭が管理人室を訪れたと二階堂から電話がかかってきた。

『なんか用事があるっぽいですけど、シロさん来られます?』

「管理人室でしょ? それなら大丈夫」

 かなり回復した足取りで志朗が立ち上がった。ちょうど退勤するところだった黒木も付き添うことにした。

 鬼頭は病院から一旦自宅に戻っていたらしい。『皆さん、今日はありがとうございました』というメモを見せると、深く頭を下げた。

「鬼頭さんもありがとうございました」

『シロさん、耳聞こえるようになりましたか?』

「もう大体普段通りですので、ご心配なく」

 鬼頭はうんうんとうなずくと、肩にかけていたカバンからぬいぐるみを一体取り出した。クレーンゲームの景品らしい、人気アニメの主人公の人形である。それを志朗に押しつけ、ぱくぱくと口を動かした。

「すみません、もう一回言ってもらえます? ……あー、確かに来ました。美苗さんの兄嫁だった人でしょ、たぶん。面倒ですね、あの人」

 鬼頭がうなずく。志朗は「すみません、いただきます」と言ってぬいぐるみを持ち直した。

「それじゃボクは部屋に戻るので。お疲れ様でした」

 志朗はそう言って、白杖をつきながら管理人室を出て行く。ドアから足を踏み出したところで「もう日が暮れたね」と独り言を呟き、すぐエレベーターの方に姿を消した。

「見えないのに何でわかるんすかね、日が暮れたとか」

 と二階堂が言った。

 それはさておき、外はもう暗い。黒木と鬼頭も帰宅することにして、サンパルト境町を後にした。

『では失礼します』

 鬼頭があらかじめ書いてあったらしいメモを見せ、ページをめくる。

『ありがとうございました』

「いえ、こちらこそお世話になりました」

 黒木がそう言う間に、鬼頭は新しいページにさっとペンを走らせた。

『黒木さんもお気をつけて』

「俺ですか」

『あの部屋に明日も行かれるんですよね』

「はぁ」

 鬼頭は強調するように『お気をつけて』をぐるぐると丸で囲み、うんうんとうなずいた。

「は、はい……わかりました」

『では失礼します』

 鬼頭は最後にもう一度お辞儀をし、黒木の住むアパートとは反対の方向へと歩いていった。

 黒木も自宅に向かって歩き始める。帰り際に一度振り向いたが、六階の角部屋の窓に、もう人影は見えなかった。

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