第十六話

 顔を伏せたまま廊下を走り抜けた黒木は、玄関からマンション共有の廊下に飛び出した。二階堂を担いだまま尻餅をつき、口の中に溜まっていた空気を一気に吐き出す。凍っていた全身の血が一気に溶けるような心地がした。

 二階堂の腕からは、いつの間にかもう一体のサルが消えている。あの部屋のどこでなくしたのか、確認しに戻る気はなかった。

『もしもし! 大丈夫ですか!?』

 スマートフォンから声が聞こえた。

『内藤です。タクシーを呼んだので、一階に下りてきてください。そのまま病院に――あの』

 声を震わせながら、美苗は『桃花、連れてこられたんでしょうか』と尋ねた。それに二階堂が答えた。

「だ、だいじょぶっす。う、ウサちゃん……ウサちゃんがよかったっすね……ふーっ」

 以前904号室に転がり込んできたときと同じく、顔色がひどく悪い。黒木は美苗に「一階に向かいます」と伝え、二階堂を背負い直してエレベーターに向かった。

 美苗は鬼頭と共に、上から降りてきたエレベーターに乗っていた。

「黒木さん、私たちが二階堂さんを桃花のところに連れていくので、904号室に戻っていただけますか? これ、施錠するのに勝手に持ってきてしまったんですが」

 美苗がそう言って904号室のカードキーを差し出す。

「桃花は鬼頭さんが何とかしてくださるそうなので……あの、志朗さんの方を」

 そう言われて、黒木はようやくその場に志朗がいないことを不審に思った。


 904号室にはゆるぼの稼働音だけが響いていた。

「志朗さん……うわ」

 志朗は応接室の床に耳を押さえて転がっていた。ゆるぼが何度も体当たりしているが動かない。巻物はテーブルの上に広げっぱなしになっている。

「志朗さん? 大丈夫ですか?」

 応答はなかった。

 黒木が近づいても反応しない。かがんでおそるおそる肩を叩いてみると、ようやくそろそろと右手が上がった。

「黒木くん? 悪いね、今耳が聞こえんのよ……鬼頭さんの鬼頭砲、同じ部屋で聞いちゃってね……想像してたより倍やばかった」

「あれ鬼頭さんだったんですか!? って、聞こえないのか」

 志朗と会話が成立するまで、その後三十分近く待つことになった。なんとか黒木の声が聞き取れるようになった後もまだ本調子には戻らないらしく、よろよろと立ち上がると手探りでソファを探して、崩れるように座り込んだ。

「あのどーんってやつ、鬼頭さんの声だよ」

「本当ですか!? あれが声って――というかそもそも鬼頭さん、声が出ないんじゃなかったんですか?」

「実際ほとんど出ないらしいよ。普通にしゃべってたらすぐ掠れちゃうって。だから、ここぞというときのために温存してるんだって」

「はぁー」

「三年間あっためてただけあったね……」

 志朗は聴覚がかなり鋭い。あの大音声には、さながら目の前で閃光弾が炸裂したような効果があったらしい。そういえば「相性が悪い」と言っていたな――と、黒木は昨日の会話を思い出した。

「ところで志朗さんが聞こえてない間に、鬼頭さんからメールが届きました。無事終わって、桃花ちゃんも目が覚めたそうです。二階堂さんが泣いて大変だって」

「なんで二階堂くんが泣くんじゃ。よかったねぇ」

 志朗はまだ頭を抱えていたが、それでもほっとしたらしくヘラヘラと笑っている。黒木もようやく現実に戻ってきた実感を得つつあった。

「604号室、結構危険でしたよ」

「ごめんごめん。ボクは鬼頭さんのアレ知ってたけぇ、大丈夫だろうと思ってたんじゃ。でも切り札は隠すものだからね」

「今度二階堂さんにも謝っといてくださいよ」

「そうだねぇ」

 志朗はあまり反省していなさそうな口調で相槌を打つ。そのとき、

 ぱた

 リビングの方から足音のような音が聞こえた。

「他に誰かいるんですか?」

「誰もいないよ」

 志朗がそう答えたそばから、またぱたぱたと音がした。黒木の脳裏にふと、スリッパを履いた小柄な女性が、リビングの中を歩きまわっている絵面が浮かんだ。

「でも」

「しーっ。気にしたら負け」

 そう言いつつ、志朗は黒木を手招きすると、耳元で「美苗さんを探してるんだよ」と囁いた。


 足音はしばらく続いた。

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