第十五話

 黒木は二階堂を押さえたまま周囲の床を見た。何もない部屋である。ぬいぐるみが落ちていれば見落とすはずがない。

 床から何かが這いあがるように、冷気が足を伝って上ってくる。

「し、志朗さん! どうしましょう!?」

『待って。そのまま』

 イヤホンの向こうから声がした。

「外出た方がよくないですか!?」

『いや、桃花ちゃんを連れて出たい。その場でもう少し待って。近くにいる』

「近くにって……全然見えないですけど……」

『いるから』

「なぁ~これやっぱやばいんじゃないすかねぇ」二階堂の声が震えている。「なんかマジでいますもん。何か来るってマジで」

「志朗さん、一旦撤収していいですか!?」

『待って』

「い、いつまでですか?」

『まだ』

「まだって言われても」

 その時イヤホンから、聞いたことのない女の

『いかないで』

 という声が聞こえた。

 直後、通話が切れた。

「志朗さん!?」

 こつん。

 洋間の外から音が聞こえた。

 こつん。こつん。こつん。

 廊下の方角からだ、と思った瞬間、大きな音を立てて廊下へと続くドアがひとりでに閉まった。

「やばいって」

 羽交い絞めにされたままの二階堂が呟いた。黒木のこめかみから汗が一筋垂れる。

 そのとき、電話が鳴った。

 黒木は慌ててスラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。志朗ではない。登録されていない番号からだ。ふたたびしゃがみそうになる二階堂を片腕で支えながら、黒木は逡巡した。出るべきか否か。

「よし!」

 迷っていてもしかたない。黒木は一声気合いを入れると、「通話」をタップした。

『ごめん黒木くん! 電話切れた』

 志朗の声が聞こえた。『通話、スピーカーにして!』

「は、はい!」

 こんなときは自分の動作がひどくもどかしい。震える指先でスピーカーのアイコンをタップすると、イヤホンではなくスマートフォン本体から声が聞こえた。志朗の声ではない。

『桃花! うさちゃんだっこして!』

 美苗の声だった。

「ぎっ」

 二階堂が妙な声を上げた。「来た来た来た」

「何!?」

『入った! 黒木くん、外に出て!』

「そ、外に」

 狼狽しながらも、黒木はポケットにスマートフォンを戻し、さっそく動きがままならなくなった二階堂を肩に担いだ。予想していたよりもずっと重い。桃花が一緒に乗っているからだ、と直感が告げた。リビングに飛び出し、廊下に出ようとドアノブに手をかけたその時、廊下からまたこつん、と音がした。

 思わずドアノブから手が離れる。

 廊下に何かがいる。


 こつん、こつん、こつん、こつん、こつんこつんこつんこつこつこつこつこつこつ


『五つカウントする』

 硬直している黒木の耳に、志朗の声が届いた。『ゼロでドアを開けて、スマホを前に突き出して。廊下を見ないように』

「は、はい」

『五』

 黒木は右手の汗を太腿でぬぐい、スマートフォンを持った。

『四』

「二階堂さん、なるべく捕まっててください」

 声をかける。

『三』

 二階堂の体を左腕と首で支えながら、何とか空けた左手を伸ばす。

『二』

 左手でドアノブを掴む。

『一』

 薄目を開け、ドアノブを捻る。

『ゼロ!』

 黒木はドアを開け、目を閉じると同時に右手に持ったスマートフォンを前に突き出した。その途端スマートフォンから、

『どぉ――――――――――――――――――――――――ん』

 という、大音声が響き渡った。

 廊下にいた何かの気配がぱっと散った。スピーカーからは『は、走って! 出て!』という女の声が続き、その後ひどく咳きこむ音が続いた。

 黒木は二階堂を抱えて、リビングから廊下へと飛び出した。背後でまたひとりでにドアが閉まった。

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