第十四話
黒木は二階堂と顔を見合わせた。どうやら二階堂にも足音は聞こえたらしい。
『洋間。いるね。桃花ちゃん』
志朗が言う。おそらく今、巻物を広げて604号室を「よんで」いるのだろう。言葉が切れ切れで余裕が感じられない。
『他は見てる。静かだけど』
そう言われた途端に、背中や頭の上に害意を持った視線らしきものを感じてしまう。黒木は心の中で、気のせいだと自分に言い聞かせた。
もっとも黒木自身に限っていえば、加賀美の御札を持っているからよっぽどのことがなければ大丈夫だ、と思う。少なくとも志朗と鬼頭は太鼓判を押していた。加賀美春英という人物は、彼らの間では相当な有名人らしい。
問題なのは二階堂の方だ。今、彼が持っているお守りらしきものは、鬼頭のくれた人形二体のみだった。
となれば、やはり先陣は自分が切らなければならない。
「洋間、入っていいですか?」
イヤホンの向こうで少しの間沈黙が満ちた。今は「よむ」方に集中しているのかもしれない。待っていると、ややあって『いいよ』という声がした。
くもりガラスの向こうに人影はない。黒木は思い切って、洋間に通じる引き戸を開けた。
人の姿はなかった。
だが、パタパタッという軽い足音が、すぐ目の前を通り過ぎた。足音は小さな震動を伴っていた。背中を冷たい手で撫で上げられたような、ぞっとする感覚が走った。
黒木はまた深呼吸をする。本当なら今すぐ逃げ出したい気持ちを抑えて、部屋の中を見渡した。
八畳ほどのフローリングの部屋には、もちろん何も置かれていない。右手の壁一面はクローゼットになっているが、その中も空っぽだろう。
対面の壁には窓がある。黒木が桃花の姿を見つけた窓だ。
「あの窓っすよねぇ、黒木さん」
二階堂がそう言いながら、じりじりと洋間の中に移動する。
「桃花ちゃん」
声をかけたが返事などはない。自分が小さな子どもだったらどうするだろうか? と黒木は考えた。もうそんな時期は遠い昔に置いてきてしまった。
もしもよく知らない大人がふたり、突然目の前に現れたら、子どもは怖がって隠れてしまうかもしれない。「知らない人」ではないとわかってもらう必要があるかもしれない。
「ええと、桃花ちゃん、えーと」
子どもに話しかける機会などほとんどない。どうやって話せばわかってくれるだろうかと思いながら、黒木は自己紹介を続ける。「俺のことわかるかな? えーとアレだ、前にそこの窓から手を振ってくれたよね。実は桃花ちゃんのお母さんに頼まれて、桃花ちゃんのことを迎えにきたんだけど……」
いかにも不審者の口上らしくなってきたことに絶望しかけたが、自分ではなく二階堂のところに行ってくれれば、と思い直す。二階堂の方が子どもの扱いに慣れているだろう。そう思って視線を移すと、二階堂は窓辺ではなく、クローゼットの近くにしゃがんでいた。
「二階堂さん、どうかしました?」
「く、黒木さん、その、この辺なんすよね」
二階堂が絞り出すような声で答える。「この辺の真下なんすよ、あの……あれが埋まってるのが」
きっとこの部屋では名前を呼ぶことができない、あの人形の話をしている。
「や、やりたくてその」
二階堂は両手で床をひっかいている。フローリングの床と、爪の擦れる音が聞こえる。
「オレね、やりたくて、やってるわけじゃ、な、ないんすよ。マジで。ただアレなんすよ、やっぱりね、出たがるんすよ。こっちに来たいって。な、内藤さんに聞いたことがあって、前の家で亡くなった人が畳を、畳をひっかいた痕が、掘ったみたいに」
床を掻く二階堂の爪が、板と板の間に挟まって硬い音をたてた。このままでは爪が剥がれてしまう。
「に、二階堂さん! 立ちましょう! 立ってください!」
黒木は二階堂の両脇に腕を入れ、強引にその場に立たせた。二階堂が「はーっ」という声と共に息を吐き出す。
そのとき黒木は、二階堂の腕にくっついていた猿のぬいぐるみが、一体なくなっていることに気づいた。
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