第十三話

「黒木さん……これは笑ってもらっていいというか、むしろこれは笑うところっすよ……」

 暗い顔でそう言われても、本当にそうやって笑ってもいいものかどうか、黒木には判断ができなかった。

 憑依されやすい体質の二階堂が、目下心霊スポットと呼んでも差し支えないであろう604号室に突入しなければならない――というのは、本人にとっては由々しき事態だし、さぞ厭だろうとも思う。いくら「そんなに危ないことにはならない」と言われていたとしても、自ら危険な場所に赴くことには変わりない。気の毒だし、同情してもいる。

 が、絵面が愉快なのだ。それでさっきから黒木は、微妙な表情をしながら口の中の肉を噛んでいるのだった。

「桃花ちゃんが寄ってきやすいように、愛用していた品を貸してほしいんですが」と志朗に言われた美苗が持ってきたのは、体長50センチくらいのウサギのぬいぐるみだった。手を塞がずに持ち歩けるように、今は二階堂の背中に紐で括りつけられている。かくして心霊スポットの手前に、ウサちゃんをおんぶしたスーツ姿の男が登場することとなった。

 美苗は904号室の応接間に、志朗と鬼頭と共に居残っている。もしも604号室やその下の階層に美苗を待っているというエプロンの女性がいるとしたら、彼女がここに来るのは危険だ。

「内藤さんが行くのは、やっぱりやばいものの巣を突っつくようなもんだよ」と志朗は言い、「ところで二階堂くん、ボク見えないけど今たぶん愉快な格好になってるよね。だって気配が愉快だもんね」と続けて噴き出した。

 鬼頭は肩を震わせながら『わたしも美苗さんといっしょにいます。念のため身代わり人形どうぞ』とメモを書いて、腕に抱きつくタイプのぬいぐるみを二体渡してくれた。ところが黒木の腕が太すぎて上手くはまらず、それらも二階堂が持ち運ぶ羽目になった。その結果、ウサちゃんを背負っておさるさんを両腕につけたよりファンシーな姿に進化してしまったが致し方ない。

 黒木は加賀美春英のくれた御札を身につけているから、大抵のものは寄ってこないだろう。いざというとき、搬出係の自分が動けないのでは困る。

「黒木さん、早いとこ行きましょう。さっきから入居者さんの視線が痛いんで」

 万が一にも誰かが604号室に入ってこないよう、立ち入り禁止のテープを廊下に張っていた二階堂が作業を終え、妙に座った目をして言った。

「そ、そうですね……」

 黒木はスマートフォンを取り出して、志朗に電話をかけた。自分はイヤホンをつけ、904号室からの指示を聞けるように準備をする。

「そろそろやります」

『はい。お気をつけて』

 イヤホンから志朗の声が聞こえた。

 カードキーは黒木が持たされている。深呼吸をひとつしてから「開けます」と言って二階堂を見ると、「ッス!」と二階堂が応えてうなずく。カードをかざすと「ピピッ」という電子音がした後、鍵が開く音がした。

 黒木はドアノブを回しながら、604号室のドアを開けた。

 冷たい空気が漂い出てきた。新築そのままの建材の匂いがする。完成当時からずっと空き部屋というのはどうやら本当らしい。

 そして、「厭な感じ」がする。

「どこで見たんすか、黒木さん……」

「角のあの辺だから、ええと」黒木は間取りを頭の中で反芻する。「奥の洋間です」

 よりによって一番玄関から遠い部屋である。

『靴、脱いだ方がいいと思う』

 志朗が指示を出す。室内でも通話が可能だったことにひとまずほっとして、黒木は胸を撫で下ろした。

『土足で入ったら怒られそうな気がする。刺激したらよくないんで』

「わかりました」

 三和土で脱いだ靴を、一度玄関を開けて外に放り出す。出るときには靴など履く時間も惜しいかもしれない。かといって、この部屋に自分が身につけていたものを残していくことにも抵抗があった。自動的に閉まった玄関の鍵は、内側から改めて開けておいた。

「中に入ります」

『わかった。リビング入ったら名前呼んでみて。桃花ちゃんの』

 廊下の奥のドアを開けて、黒木はリビングに足を踏み入れた。開けっ放しのドアから、二階堂がそれに続く。

 入居者のいないリビングには何もない。右手の壁には洋間とを隔てる摺りガラスが入った引き戸があり、そこもきちんと閉まっていた。大きな掃き出し窓からは太陽の光が差し込んでいる。なのに部屋の中はなんとなく暗い。

 黒木は息を吸い、思い切って「桃花ちゃん」と呼びかけた。思いのほか声は大きく聞こえ、残響が何もない部屋に木霊した。

 そのとき引き戸の向こうで、ととっ、と足音のような音が聞こえた。

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