第十五話

 すぐにはそれが何の音なのかわからなかった。そのうち、辺りがだんだん靄がかかったように白くなってきて、ようやく私は、今鳴っているのが火災報知器だということに気づいた。

 何かが燃えている、ということをようやく理解したそのとき、火災報知器のベルをかき消すように別の音が耳を裂いた。それが人間の声であると気付くのに、また少し時間がかかった。

 呆然と立ち尽くしている私を押しのけるようにして、兄がキッチンの方へと走っていった。

 私はといえば、悪い夢を見ているような気分だった。頭がふらふらして働かない。どうすればいいのかわからなくてただただ困惑していると、突然腕をぐっと引っ張られた。

「か、火事ですよ! 外! そ、外に出ましょう!」

 鬼頭さんだった。私の腕を掴んだままそう言うと、また咳込み始めた。

 煙がどんどんこちらに漂ってくる。そのとき、綾子さんがさっと踵を返そうとした。鬼頭さんが空いている方の手を伸ばして、とっさにその腕をつかんだ。

 綾子さんが驚いたような顔でこちらを向いた。

「あ、あの、あなたもその、にっ、逃げないと!」

 そう言いながら、鬼頭さんは綾子さんと私を引っ張っていこうとする。その時、綾子さんが鬼頭さんの手をぱっと払った。

「心配してくれてありがとう」

 さっきとは別人のような穏やかな顔で、彼女はそう言った。

「でもしいちゃんが怖がるから。あの子、火がきらいなの」

 そう言うなり、綾子さんは慣れた手つきで錠を外し、あの部屋の中に飛び込んで戸を閉めた。

「なっ、なっ、わっ、何やってるんですか!」

 鬼頭さんが悲鳴のような声をあげた。

 報知器のベルも、獣が吠えるような悲鳴も、全部遠くで鳴っているようだ。おそらくこれが今日まで無理やり続けてきた生活の幕引きになる。そのとき私はようやく、この家のどこかにいるはずの桃花のことを思い出した。

「桃花、桃花は」

 おろおろしている私に、鬼頭さんがぴしゃりと言い放った。

「桃花ちゃんは大丈夫です!」

 それから彼女は、小柄な体に似合わない力で私を引きずり、玄関から外に出た。

 リビングの窓越しに踊る炎が見えた。こんな時だけど綺麗だ、と思った。私たちからやや遅れて、兄が玄関から出てきた。

「綾子は?」

 私の姿を見つけると、兄は駆け寄ってきて必死に尋ねた。私が言葉を探しているうちに、鬼頭さんが「あ、あの部屋に、入りました」と答えた。

 てっきり兄は半狂乱で家に戻ろうとするだろうと思った。そうなったら止めなければ、とも思った。でもそのとき兄はほっとしたような笑みを浮かべて、

「それなら」

 と一言漏らしたのだった。

 周囲の家々から住人が出てくる。ざわざわという喧噪の向こうから、サイレンの音が近づいてきていた。


 結局、家は半焼で済んだ。古い家だがしっかりした造りだったことや、壁紙やカーテンに耐火性のあるものが使われていたことなどが幸いしたらしい。隣近所への延焼もなかった。

 火事はおそらく母が故意に起こしたものだろう。勝手口からガレージに入り、休眠中だったバイクから抜いてあったガソリンを持ち出すと、キッチンとリビングに撒いて火を点けたらしい。もっと量が多かったら大変なことになっていただろう。その際着ていたものに火が燃え移ったらしく、母はまもなく到着した消防隊員によってリビングから救出されたものの、搬送先の病院で亡くなった。一言も話せなかったから、経緯は推測するしかない。

 他所で命を落としたのだから、母の魂は「井戸の家」に残っていないのだろう。それが幸いなのかそうでないのか、私にはよくわからない。

 ただ、母はこの家をめちゃくちゃに壊そうとしたのだろう、と思う。そうやって無理にでもここから出て行かなければいけないように仕向けたのだろう。無茶をしたものだと思う。

(お母さんてば、お父さんに叱られるよ)

 喪失の実感がまだ得られないまま、私はひっそりと、心の中でそう呟いた。


 火元から遠かったためか、それとも何かの力が働いたのか――例の部屋は、何の被害も受けずに焼け残った。

 それでも綾子さんは亡くなった。煙とも炎ともまったく関係なく、自然に心臓が止まったとしか言えないような死に方だった。

 あの部屋の中で、中央の畳の縁に爪を立て、眠るような穏やかな顔で倒れていたと、後から聞いた。

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