第十六話

 母と綾子さんの葬儀の後、兄が自室で首を吊って死んだ。こう言っては薄情なようだけど、私にとっては予期されていた死だった。

 兄がどうしてあの部屋で死ななかったのか、私は知らない。遺書のない自殺だった。ただあえて考えるなら、あの部屋でこれ以上不審死が相次ぐと無暗に人に注目されるかもしれない。そのことを嫌がったのかもしれなかった。自分のためではなく、綾子さんのためにそうしたのだろう。

 夏は嵐のように過ぎ去った。

 母の死も兄の死も、あまりにも立て続け過ぎて、まるで箇条書きにされた遠い場所での出来事のようだった。悲しみも喪失感も実感に乏しい。それでもふたりの忌引き明けに出勤すると、同僚が開口一番「大丈夫? ひどい顔色だけど」と尋ねてきたくらいだから、きっと堪えてはいたのだろう。

 忌引きに関する手続きをするために家族の死亡届を並べてみせると、上司はいたたまれないような顔をして、ぎこちなくお悔やみを述べた。目の前のことなのに、当時の私にとってはそれもひどく現実感を欠いたものに思えた。


 それから少し経ったある日、定時ぴったりに仕事を上がり、まだ片付けの残る焼け残った家に一度立ち寄ったあと、私は桃花のいる病院に向かって歩き始めた。手には新しく買った着替えを持っていた。

 まだ空に明るさは残っているが、日はだんだん短くなるだろう。ガードレールをふたつ挟んだ道路の向こうに、両親らしき男女と歩く二人の子供を見た。小学生くらいの男の子が、保育園の制服を着た女の子と手を繋ごうとする。女の子がいやがってそれを振りほどく。男の子が「あぶないよ!」と言って、また繋ごうとする。一歩前を歩く母親が時々振り返り、一番後ろから父親がゆっくりとついていく。

 私も昔、手を繋がれるのが嫌いな子供だった、と思ったら、なぜか突然涙が出て止まらなくなった。向こうを歩いていくのは名前も知らない他人の一家なのに、失ったものを一度に見せつけられたような気持ちになって、胸が爆発しそうになった。

 慌てて近くのコンビニのトイレに駆け込むと、私はもう一度外を歩けるようになるまで声を殺して泣いた。


 一部が黒焦げになり、おまけに放水でめちゃくちゃになった家に住むことはできず、近くにアパートを借りて可能なかぎりの荷物を移動させた。例の家は相続を経て、すべて私の持ち物になっていた。

「ざ、残酷かも、しれませんが、その、手放した方が、いいです」

 鬼頭さんに相談すると、彼女は遠慮がちにそう言ってひどくむせた。

「桃花はどうなるんでしょう。あの子、まだ病院で眠っているんです」

「も、桃花ちゃんは、その、あの状況下では、その、特別というか」

 タイミングがよかったのだろう、と鬼頭さんは言った。桃花があの部屋に入ったとき、鬼頭さんの母親はまだ生きていたし、彼女の施した封印もまだ効いていて、部屋の力が十分に発揮されなかった。加えて桃花は私のことをとても気にしているから、中途半端な状態で魂が離れることになったのだろうという。

「す、すべて、その、推測です。すみません。でも」

 私の小さなアパートで、鬼頭さんは頭を垂れて言った。

「桃花ちゃんだけは、その、家に取り込まれずに、す、済んでいると思います。体が生きているのが、しょ、証拠かと。それは、その、あの部屋の力がまだ失われていないという……そういうことでも、その、あるんですが。だから、も、もうちょっと、その、関わっていてもいいでしょうか。というか、その、そうなると思います」

 私は「鬼頭さんのお気の済むようにしてください」と答えた。

 どのみち私には、家を手放す以外にできることがなかった。なにしろ私だけでは家の修繕費も、維持費も支払うことができないのだ。あの部屋のことも、「しいちゃん」の正体もわからないまま、とうとう私は「井戸の家」を売却することに決めた。


 曰く付き物件――しかも半焼した家がまだ建っている――はなかなか買い手がつかないだろうと心配したけれど、意外なことに、地元の不動産屋が早々に買い上げてくれた。それ相応に買いたたかれた感はあったけれど、正直ほっとした。

 焼けた家屋は取り壊された。その際に鬼頭さんが立ち会ったようだが、私は詳細を知らされていない。再び立派な家が建ったが、いつの間にかまた売家になっていた。そこで何があったのか私は知らない。ただ時折近所を訪れてこっそり桃花の名前を呼ぶうちに、住人が逃げるように引っ越していったという話を小耳に挟んだ。

 鬼頭さんが言ったとおり、家自体がなくなっても、あの部屋の力は失われていないのだ。背筋が冷たくなった。

 ふたたび家は取り壊された。今度は近隣の家も買収されたらしく、一面が大きな更地になった。建築会社の社名が入った囲いで一帯が覆われ、中で何かの作業が始まった時、私は胸の中でひどくざわつくものを覚えた。

(ずっと、人を呼んでいて、だからあそこはその、ずっと『家』なんです。ほ、ほかのものには、ならないし、その、誰かがきっと住んでしまうんです)

 いつだったか鬼頭さんが言っていたことが、どんどんその通りになっていく。

 その土地に大きなマンションが建つのを、私は不安を抱えたまま見ているより他になかった。


 そうやって「井戸の家」の跡地に「サンパルト境町」が完成したとき、あの悪夢のようだった日々から七年ほどが経過していた。

 桃花は眠ったまま、十歳になった。

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