第十四話

 綾子さんはただの人間のはずなのに、それでも思わず後ずさりたくなるくらい、そのときの彼女は怖い顔をしていた。鬼頭さんは口元を隠し、またコンコンと咳をする。

 母の部屋の方から、兄が走ってやってきた。綾子さんと鬼頭さんの緊迫した様子を見て何か言いそうにしたが、綾子さんに「大丈夫」と言われて口を閉じた。

「ほんとにお帰りになったら?」

 綾子さんが鬼頭さんに言った。一見親切そうだけれど、声はあくまで冷たい。

「それ、何回もできないんじゃないんですか? お辛そうですけど」

「そ、そんなことも、ないです。ふーっ」

 鬼頭さんは下を向いて何度か大きく息を吐き、綾子さんの方に向き直った。「その、か、悲しくは、な、ないですか」

「何のことですか?」

「む、無理に、その、人をこの家に、と、留めたりして」

「余計なお世話です」

「み、皆さんも、その、あなたも。出て行くべき、です。こ、この家から」

 あなたも、というところに重心を置くように、鬼頭さんは言葉を続けた。ぞっとするほど冷淡な顔の綾子さんを見つめて、バッグの肩ひもを命綱のように握り締めているけれど、引き下がる様子はない。

 綾子さんは首を振って、「しいちゃんを置いていけません」と答えた。

「あの子は一度捨てられてひとりぼっちになったのに、またひとりにするのは、それこそ悲しいと思いませんか? わたしはこの家で、あの子とわたしの望む家族を作りたいんです」

「も、もう、何人もここで、その、亡くなって、それでも、た、足りないのに?」

 鬼頭さんは一歩も退かない。それどころか少し足を前に進めた。

「そ、その子の、か、家族は、ずっと、足りないままです。あ、あなたたちが、その、いればいいというものじゃ、な、ないんです。その、これからも、ずっと、人を呼び続けます。その、そんな、い、意味のない、ことに」

 ふーっとまた大きく息を吐く。「――意味のないことに、ひ、人を巻き込むべきでは、その、ありません」

「帰ってください」

 綾子さんが言い放つ。「家族でもないあなたに、わたしの家のことをどうこう言われたくありません。帰ってください」

「その、あの、それじゃ」鬼頭さんがバッグの肩ひもを一段と強く握る。「み、美苗さんたちが、その、出て行くのも、と、止めないでくれますか」

「はい?」

 綾子さんの顔に、ふっと困惑の色が浮かぶ。「どうして美苗さんたちがこの家を出て行くんですか?」

「そ、それは、言ったとおりで……」

「美苗さんもおかあさんもわたしの大事な家族だし、家族を置いていくようなひとではありません。桃花ちゃんやおとうさんだってこの家にいるのに」

 桃花の名前を聞くと、とたんに胸がぎゅっと絞めつけられる。そうだ、桃花のことはまったく解決していない。体は病院で眠ったままだ。鬼頭さんにもどうにもできないまま、この家に置いていくことしかできないなんて――何度もそうやってきたように、私は自分の無力を嘆く。

 綾子さんが「何もわかってないくせに」と言った。

「あなたが何を知ってるっていうんですか? この家から出ていけなんて、あなたひとりが勝手によかれと思って言ってることでしょう」

「違います」

 鬼頭さんはきっぱりと言い放った。

「そ、それは、違います。内藤さん――み、美苗さんのお父さんが、その、この家を出ろと、わ、わたしに伝えにきたんです。きょ、今日だって、わ、わたしを呼んだのは、その、桃花ちゃんです。お、お母さんを助けて、ほしくて。な、何も」

 鬼頭さんはまた口を押えて咳をした。まだ苦しそうな息の下で、「何もわかってないのは、あなたです」と続けた。

 そのとき、綾子さんが笑った。普段とまったく同じ朗らかな笑みを浮かべて、「やっぱりわかってない」と子供を諭すように言った。

「お父さんも桃花ちゃんも、まだ家族になじんでいないだけです。本当よ。家族はほかにもいっぱいいるけど、最後はみんな幸せそうになるんだから。おばあちゃんだって、しいちゃんに会えて嬉しそうにしてたんですよ」

 その笑顔が、私にはぞっとするほど怖ろしかった。思わず握り合わせた自分の手は、汗をかいているのにひどく冷たい。

「もう話は十分でしょう。いい加減帰らないんだったら警察呼びますよ」

 兄が口を挟んだ。

「ここの住人は僕らです。不当に居座っているのはあなたでしょう」

「違う、私の知り合いなの」

 とっさに兄に向かって声をあげながら、私は今更のように母の不在に気付いた。母はどこにいるのだろう?

 そのとき、突然ジリジリという大きな音が家中に響き渡った。

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