第十三話

 電話が鳴っている。


 この振動は携帯のマナーモードだ。私は慌ててポケットに手を入れた。震える手で画面を開くと、眩しいほどの明かりが目に飛び込んできた。

 やっぱり電話だ。「鬼頭雅美」と表示されている。

 安堵のあまり泣きそうだった。震える手で通話ボタンを押し、もしもし鬼頭さん、と呼びかけようとした途端、

『どぉ―――――――――――ん』

 という大音量が、私の耳をつんざくように飛び出してきた。耳がキーンと鳴った。

『どぉ―――――――――――ん』

 電話越しにも空気の震えそうな音――いや、声だ。私はようやくそれが、鬼頭さんの声だということに気づいた。

『どっ、すっ、スピーカー、スピーカーにしてください!』

 合間に鬼頭さんが言い、やっぱりこれは彼女の声だったのだと私は改めて確信した。

 今日の昼、この部屋の前で「やめて」と言ったときの彼女の声が、何倍にも増幅されて、単純な音色に乗り部屋に満ちる。

『どぉ―――――――――――ん』

 コツンコツンという音はとっくにかき消され、今は続いているのかどうかさえわからない。ただ、なにかこちらに向かって顔を出そうとしていたものの気配が、元の場所へと逃げ去っていくような気がする。

『どぉ―――――――――――ん』

『どぉ―――――――――――ん』 

 そのとき突然戸が開いた。何ものかにはじき出されるように、私は部屋から転がり出て、背中から廊下へと倒れ込んだ。眩しい光が両目に飛び込んでくる。

「美苗さん」

 廊下にひっくり返った私の目に、赤いスリッパが一足見えた。

 綾子さんが立っていた。エプロンで手を拭きながら「なぁに、それ」と問いかけてくる。

「それ、誰から電話?」

 ぞっとするような冷たい声に、思わず身震いをした。そのときふたたび携帯から、『どぉ―――――――――――ん』というすさまじい声が鳴り渡った。ほとんど同時、被さるように、この家の外からまったく同じ音がステレオのように聞こえてきた。あの小柄な体から出る音とは信じがたい。まるで巨大な楽器が奏でられているみたいだ。その音色と音量で、家全体がビリビリと震えるようだった。

 何なのこれ、と呟いたとき、インターホンが鳴った。

 綾子さんが玄関の方を振り返る。私は立ち上がると、思い切って彼女に体当たりした。よろけた綾子さんを放っておいて玄関に走る。来客はすでに門扉を開けて入ってきたらしく、玄関の引き戸をドンドンと叩く音がした。

「鬼頭さん!」

 玄関のドアを開けると、そこにはやっぱり鬼頭さんが立っていた。携帯を頬に当て、肩に何やら四角く膨らんだ大きな布のバッグをかけている。彼女は私の顔を見るとほっとしたように表情を緩ませ、その直後口に手を当てて激しく咳きこんだ。

「来てくれたんですか? どうして?」

 鬼頭さんは涙目をこすりながら、黙って何度もうなずいた。そして靴を脱ぎ捨て、ずかずかと家に上がってくる。迷わず例の部屋の方向に進む彼女を、私は追いかける他なかった。

「ねえちょっと! 今の何?」

 母の部屋から声がした。窓から見える空にはまだ夕方の青さが残っている。ずいぶん長い夢を見ていた気がするのに、実際にはそれほど時間が経っていないようだ。

 現実感がなくて足元がふわふわする。おかしな気分だったけれど、あれほど全身を支配していた恐怖はもう、私の中から消えていた。

 角を曲がり、行く手にあの部屋が見える。その前にはやはり、綾子さんが立っている。

「あなた、美苗さんのお客さんだった方でしょ」

 氷のような声で問いかけられた鬼頭さんは、口をハンカチで覆ったままうなずいた。

「困ります。家族の迷惑になるのでお帰りください」

「あの、その、あれは」鬼頭さんがようやく口元の覆いをとって、綾子さんに話しかけた。

「あれは、か、家族と言って、い、いいものじゃ、あ、ありません」

「あなたにとってはそうかもしれないけど、わたしにとっては違います」

 綾子さんははっきりと言い切った。

「こんな話したって意味がありません。わたしとあなたとではそもそも考え方が違うので」

「こ、こま、困ります。その」鬼頭さんはまた咳込む。「あ、あなたと、その、話した方が、いいかと。話を」

「帰ってください。この家は私が守らなきゃならないんです」

 綾子さんはあくまで冷たく、頑なに言葉を紡いだ。

「ここから出ていって」

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