第十二話

 私は上半身を起こした。夢の中で泣いたのか、頬が濡れていた。

 母の部屋を出てからどれくらいの時間が経ったのだろう? 記憶が定かでなかった。とりあえず掌に触れているのはフローリングではなく、畳だ。少なくとも私の寝室ではない。

 真っ暗闇のなか、ゆっくりと立ち上がった。何も見えない。目の前にかざしているはずの自分の両手もわからない。ものにぶつからないようにゆっくりと歩きながら、私はようやく壁際に到達した。縋るものができるとほっとする。

 電灯のスイッチはどこだろう? この部屋がどの部屋であれ、スイッチは壁にあるはずだ。壁を撫でながらゆっくりと歩くと、すぐ部屋の隅に到達した。

 壁に沿って方向転換し、私は蟹のように横歩きを続けた。まだ何かを蹴飛ばしたり、ぶつかったりしていない。ほとんどもののない部屋にいるようだ。少なくともリビングや台所や、誰かの居室ではない。

 この家にはほとんど使われていない客間もある。仮にここがその客間のひとつだとして、どうしてそんなところにいたのだろう……無理やりそんなことを考えながら、私はもうひとつの隅にたどりついた。やはり電灯のスイッチはない。この先にあるのか、それとも、見つけ損ねてしまったのだろうか。

 畳の上をすり足で歩く音が、部屋の中にかすかに響く。ほどなく次の角にたどり着いた。ここに来るまで障害物にも、スイッチにもまだ触っていない。

 私の額から厭な汗がにじみ始める。考えないようにしてもう一度歩き始める。

 電灯、電灯さえ見つかれば大丈夫だ。明るくなりさえすれば。普段使わない部屋だって電灯は設置されているはずだ。でも、さっきから壁を触っているけれど、この部屋にはスイッチどころか窓もない。棚のようなものも置かれていない。

 つま先が壁に触った。

 部屋の隅だ。四隅のすべてに触ってしまった。なおもゆっくりと横歩きをしながら、そんなはずはないと心の中で唱えた。

 そのとき、指先に壁とは違う手触りのものが触れた。わずかな凹凸から、私はそれが木目のある、木の板だろうと見当をつける。

 これは扉だ。

 汗でぐっしょりと湿った手を当てて、私はそれを開けようと試みた。扉は動かなかった。何度も開けようとしたがびくともしない。嘘、と声がもれた。

 今自分のいる場所が「あの部屋」なのだと、私はとっくにわかっていた。ただ、認めたくなかった。

 確か、目の前で打掛錠がひとりでに動くのを見ていた。そこから記憶がはっきりしない。夢を見ていた。家族の夢だった。亡くなった祖母も父も一緒だった。それは覚えている。

 でも、どうしてこんなところにいるのかがわからない。この部屋には絶対に入ってはいけないはずだ。自分から入るはずがない。

 木の板を力任せに叩いた。頼りない音しか聞こえない。声の限り「開けて!」と叫んだが、返事はなかった。母も兄も綾子さんも、どこでどうしているのだろう? ひどく息苦しい。生き埋めにされるような気分だ。

「誰かいないの!?」

 部屋の外に向けて大声を出した。そのとき、着ていたシャツの端をぐっと引っ張られる感触がした。

「だれ!?」

 振り返ったが返事はなかった。静まり返っている。いつかのように嗤われたほうがまだマシだと思った。そのとき部屋の中で、こつん、と硬く小さな音がした。

 こつん。こつん。

 私は背中を木の扉に押しつけ、少しでも音から離れようとした。何かが硬い板のようなものを叩いている。なぜだかノックの音に似ていると思った瞬間、私の脳裏に夢の中で聞いた桃花の声が閃いた。

(しいちゃんは、あのこでしょ!)


「しいちゃん」


 私の口から細い声が漏れる。

 こつん、こつんという音が強く、速くなる。

 こつんこつんこつんこつんこつん。


 やはりノックの音だ、と私は直感した。

 何かが出てこようとしている。


 そのとき、私のズボンのポケットが震えた。

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